第6主日 説教 マトフェイ9:1-8 2023/07/16 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
本日の福音。一人の中風で寝たきりの男が、主イイススに「あなたの罪は赦された」と宣告され、そしてなおその上に「起きなさい、床を取り上げて家に帰りなさい」と命じられました。男は群衆のどよめきの中、むっくり起き上がり、言われたとおり、床をかついで歩き始めました。
この男は、罪に苦しんでいました。中風で寝たきりという姿は、この男が自己処罰と、ときにその裏返しの持って行きどころのない怒りの嵐の中で、出口を見失って苦しみを深めるばかりであることの象徴です。そこへ、主の呼びかけが響き渡ったのです。「しっかりしなさい、あなたの罪はゆるされた」。「しっかりしなさい」は言い換えれば「正気に返れ」でしょう。何から。罪悪感と、その裏返しのやり場のない憎しみ以外に何も見ようとしない堅く閉じこもった心からです。赦されたのだから、赦しを受け取りなさい、主はそう言ったのです。
奇跡が起きました。男は赦しを受け取りました。立ち上がり歩み始めたことは、かれがついに赦しを受け取ったことのあかしでした。
「奇跡」と申しました。ほんとうにこれは奇跡です。ハリストスが神の全能の力をふるって彼の病気を癒し立ち上がらせたから奇跡なのではありません。男が、心から信じて、神・ハリストスの赦しを受け取ったから、奇跡なのです。
何か過ちを犯したとき、人々が寛大に赦してくれたとしても、自分自身がその自分の過ちを、自分の罪を赦さない。そういう人を、他の人々は彼はまじめすぎるんだなどと、ため息をつきます。
人ではなく神が、十字架の死によって神が、赦してくださったと「信じて」、その信仰に生きているという人々でも、多くの人々がこの自己処罰の網から逃れられません。こう嘆く人がいます。「神に赦される資格など自分にはありません」。人々はまた言います。「ああ、彼はなんと謙虚なのか」と。
「ちょっと待ちなさい」という主イイススの声が聞こえてきませんか。他人であれ、自分自身であれ、人を赦すか赦さないかの権威は、神のものです。本日の福音で「あなたの罪は赦された」と告げたイイススを「神への冒涜だ」とファリサイ派の人々はなじりました。彼らは間違っていません。ただハリストスが神であることがわからなかっただけです。その神であるお方が、赦すとおっしゃっているのに、自分は自分を赦さないというなら、その人は自分を神としているに等しいのです。これほど大きな罪はありません。
罪をほんとうに痛悔するなら、神が赦しているのに、自分は自分を赦そうとしない、この傲慢さをまず痛悔しなければなりません。この傲慢さは、まさに人間の傲慢さの極限の姿です。だって、自分自身を、自分をゆるすか赦さないかを決める権威を持つ神にしていまっているんですから。
そしてそれは最も根の深い人間の病です。
それをまず知って、祈りましょう。
小さなこだわりから重い自責まで、軽重はいろいろでしょう、しかし何であれ、それにこだわり続けることは、人を腐らせます。だから祈りましょう。中風の男に起きた同じ奇跡がこの私に起きますように、