マルコ9:17-31 2025/03/30 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
病気で苦しむ子どもの癒しをねがって、イイススに取りすがった父親は叫びました。「信じます、不信仰なわたしをお助け下さい」。
しかし多くの人々が、「助けてください」と言えません。苦しいとき、難しい状況に立ち至ったとき多くの人は「助けて」とはいわず、お金をいくら払えばいいですか、何をしてあげればいいですか…、そう問います。私たちは、「ただ」で自分の救いを手にいれられるなどとは「考えられない」のです。もし、ただで何かをもらってしまったら、いち早くその借りを返さなければ、くれた者に生涯頭が上がらない。支配されてしまう…。
こういう思いは、反対に人を助けたとき、その心の内には、助けてあげた人々への「貸しを作った」という優越感、人を支配しているという自己の力への甘い陶酔を生みます。だからその貸しを無視され、侮辱され、ホゴにされたとき私たちは、怒りや憎しみにからめとられるのです。
この卑屈と傲慢の間を揺れ動く、こんな「思い」に絡め取られ、そこから抜け出せなくなるつらさは、多かれ少なかれ多くの人が知っています。特に日本人は。
どんなに不確かなものと見えようとも、自分を投げ出して神に願わねばなりません。どんなにあやふやなものであろうとも、自分のうちにある「信仰のようなもの」への斜に構えた思いをかなぐり捨てて、祈らねばなりません。
ハリストスにひれ伏して(文字通り)「助けてください」と、躊躇いをかなぐり捨て、声あげて祈り願ったとき、それまで心を絡め取っていた何かが壊れます。助けが必要な自分を人前にさらけだすことを屈辱としてきた自分は、もういません。
本日の福音、悪霊に憑かれた子を連れてきたこの父親の「お助け下さい」という願いはハリストスを動かし、子は癒されました。この癒しはたんに病気の癒しであるに留まりません。心から「助けて」と願った父親の、「自分のような者が祈ることができた」、「信じられないけれども、信じて、身を翻して飛び込んでゆけた」、という「救いそのもの」です。私たちにも起きること、起きたこと、そして魂の一番深い場所にずっとあり続けた願いです。
最後に、本日の福音が教える決して忘れてはならないことについて…。
これを忘れてしまったら、私たちは自分の信仰を、すなわち「救い」を自分の霊的精進の手柄として獲得したと誇る最悪の心得違いに落ちます。そして神さまに対して「貸しを作った」と誇るのです。悪魔の高笑いが聞こえてきそうです。
…「主よ、信じます、不信仰なわたしをお助け下さい」。
この、実に虫のいい願いこそが実は、まことの信仰への出発点です。そしてまことの信仰をいつも一番深いところで支える告白です。私たちは自分自身の力では信仰にたどりつけません。「信じます、不信仰な私を…」という告白は、ハリストスとの出会いの中で与えられた神の恵み、贈り物です。聖使徒パウェルはこう言っています。
「あなた方が救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなた方自身から出たのではなく、神の贈り物である。それは、だれも誇ることがないためだ」(エフェス2:8-9)。
私たちにできることは、信仰をいただきたいと願うことだけなのです。正教の伝統的な祈りは、この真実を人の思いのぎりぎりいっぱいのところで告白します。信徒が毎朝祈る「朝の祈り」の第八祝文は次のように祈ります。
「ハリストス・救い主よ、私が願おうが、願うまいが、この滅びつつある私のもとへ駆けつけてください、私を急いで救ってください。私の不信仰から私を救い出してください。」(日本正教会 小祈祷書 朝の祈祷文第8祝文)