2026年1月18日
大阪教会
父と子と聖神の名によりて
私たちは、「自分は自分、他人は他人」と思って生きています。
私は何も「人は皆、自分のためには他人のことなど省みない我がままなエゴイストだ」と言っているのではありません。「自分と他人は、たとえ夫婦や家族といった、どんなに親しい関係で結ばれていても、深いところでは決して越えられない溝があって、ほんとうに理解し合うこと、お互いの人生を分かちあうことはできない」、多くの人がそう思い込んで生きているということです。
そこにあるのは人は皆、最後には、孤独な自分自身に突き返されてしまう、というあきらめです。
そこで、私たちは人にできる唯一の誠実な生き方は、「できるだけ傷つけ合わないよう、互いの利害や、感情のぶつかり合いを上手に避けながら、またそのために作り上げられた社会の約束事を守り、社会的な義務と責任を果たしつつ、孤独であることのつらさや寂しさに潔く耐えてゆく」ことと思い定めて疑いません。
でも、それは、ホントでしょうか?
ホントです。それがホント、すなわち「事実」であることは、人と人との関わりに疲れ切った私たち自身の心と身体が知っています。
ホントではあってもホントではありません。
事実ではあっても、真実ではありません。
人と人が分かち合えない苦しさ悲しさの中で、ひとりぼっちの自分に向かい合ったときに、心の底からわき上がってくる叫びがあります。
「こんな孤独がホントであっていいはずがない!いやだ、ちがう!」
この悲鳴そのものがその証拠です。ホントでないものに人は耐えられません。
ハリストスがヨルダン川でイオアンから洗礼を受けたとき、天から「これは、私の愛する子だ」と神・父の声が響き渡りました。そして、神・聖神が鳩の形でハリストス、神・子の頭上に舞い降りました。「父と子と聖神」が人々の前に示されました。
ここには、人間の孤独という現実に、あえぐ私たちに、神様から差し出された神様ご自身の愛の姿があります。父と子と聖神というお三方が、それぞれまったく自由でありながら、完全に一致し、互いを分かち合っている、このお三方一体の神の交わりが私たちに示されました。
これが、私たちの悲鳴、「こんな孤独がホントであるはずがない」という私たち・人間の叫びに対する神のお答えでした。
聖書は、人は神の像(かたち)として、神の似姿として創られたと教えます。もし、私たちがそう信じるなら、このヨルダン河畔で示された三位一体の交わりの姿こそ、そのようであれと神に創られた私たち人間の本来の姿です。
- そこには権力や暴力や恐怖によって強いられる服従はありません。
- 見せかけの一致団結もありません。
- 利害や争いを調整する約束事によってかろうじて保たれる法律的な平和でもありません。
人々は何ものにも強いられず全く自由でありながら、あらゆることを進んで分かち合います。愛だけが人と人を結びつける原理であり、人と人との間には愛以外のものは何も存在しません。…人間はこの愛を生きるものだったはずです。
人はアダムとエヴァが神に背いて以来、互いの内にあったこの神のかたちを台無しにしてしまったと教会が教えるとき、それは、この三位一体の神の似姿としての、愛による一致、お互いの一番深い部分での分かち合いを失ってしまったと、言っているのです。
しかし神は、私たちが失いもう取り戻せないものを見せつけて、ただ嘆かせるために、ヨルダン川でご自身の三位一体のお姿を示したのではありません。逆に今、ヨルダンの流れに立つハリストスを通じて、私たちが再びそのかたちへと回復されることを、すなわち人の救いを約束されたのです。
教会はその回復の場です。
聖体礼儀はその回復が決して幻ではないことを示します。集められた私たちが、心と声を一つに礼拝し、喜びのうちに一つのパンと一つの杯を分かち合うとき、人の喜びと、神様の愛の輝きがここに溢れます。