東方から全世界へ広がる 最も伝統的な キリスト教です
正教会は東方正教会とも呼ばれます。ローマ・カトリック教会やプロテスタント諸教会が西ヨーロッパを中心に広がったのに対し、キリスト教が生まれた中近東を中心に、ギリシャ、東欧から、ロシアへ広がりました。
20世紀になり共産主義革命による迫害を受け、多くの信徒や聖職者が世界各地に散らばっていきましたが、その結果西ヨーロッパやアメリカをはじめ世界各地に教会が設立され、西方教会しか知らなかった人々にも伝道されるようになりました。現在では移民や亡命者の子孫だけでなく、カトリックやプロテスタントからの改宗者たちも大勢出るようになり、欧米主導の現代文明の行き詰まりとともに停滞する西方キリスト教に新鮮な刺激を与えています。
日本へは江戸時代末期、函館のロシヤ領事館づきの司祭として来日したニコライ(「亜使徒大主教聖ニコライ」として聖人の列に加えられています)によって伝道されました。
キリスト教の土台を崩さない教会
使徒たちの伝統
イイスス・ハリストス(イエス・キリストの日本正教会訳)の十字架刑による死と三日目の復活というできごとを「神による人間の救い」として直接体験し、その証人として世界中に伝えた弟子たちのことを、特別に「使徒」と呼びます。正教会はこの使徒たちの信仰と彼らから始まった教会のありかたを、唯一正しく受け継いできたと自負します。
正教会は中世西ヨーロッパで知性先行となってしまったスコラ神学にも無縁で、近代の宗教改革も経験しませんでした。9世紀まで、つまり東西教会が一つであった時代に、500年にわたって合計7回開催された全教会の代表者たちによる会議(「全地公会」)で確認された教えや大切な教会規則、さらに使徒たちの時代にまでさかのぼることのできる様々な教会の伝統を、切れ目なく忠実に守り続けています。それは教会が問題に直面したときいつも立ち帰るべきキリスト教の「土台」と言ってもよいものです。
神学的には、人間の理解をこえた事柄については謙虚に沈黙するという古代教会の指導者(師父)たちの精神性を受け継いでいます。後代になってローマ・カトリック教会が付け加えた「煉獄」、「マリヤの無原罪懐胎」、「ローマ教皇の不可誤謬性」といった「新しい教理」は一切しりぞけます。またプロテスタントのルターやカルヴァンらのように「聖書のみが信仰の源泉」だとも「救われる者も滅びる者もあらかじめ神は予定している」とも決して言いません。現代ではかたくなと見えるほどに、古代教会で全教会が確認した教義を、「付け加えることも」「差し引くこともなく」守っています。
キリストの体(聖体血)を中心にした奉神礼共同体
ビザンティン時代に現在のかたちがほぼ確立した奉神礼(礼拝)には、初代教会の礼拝のかたちと精神性がしっかり保たれています。
中心となるのは聖体礼儀です。これは、神学的な理解や祈りのかたちは異なりますが、カトリック教会でミサ、プロテスタント教会で聖餐式といわれるものにほぼあてはまります。主イイスス・ハリストスの復活を「記憶」(キリスト教独自の意味があり「現実に今ここに在るものとして想い起こす」と言えば近いでしょうか)する毎日曜(主日)のほかに、降誕祭などの祭日にも行われます。(大斎Great Lentの期間以外は毎日が何らかの祭日なので、大きな修道院では毎日聖体礼儀があります。)
「主が来られる時(再臨)に至るまで(コリントI 11:26)」、「私を記念(記憶)するためこのように行いなさい(ルカ22:19)」という教えを守り、主日ごとの聖体礼儀に集い、主のお体と血としてのパンとぶどう酒(聖体・聖血)を分かちあうことが、教会の基本的なつとめであると理解されています。一つのパンから、また一つの爵(カップ)から聖体聖血を分かち合うことを通じて、信徒はハリストス・神と一つとなると同時に、互いが一つとなり、ハリストスが集められた「新たなる神の民の集い・教会」が確かめられます。
この神との交わりの体験の積み重ねこそ信徒の成長のみなもとであり、そこで受ける神の恵みがなければ、「よい生き方」をめざすどんな「まじめ」な人間的な努力も実を結びません。
聖体礼儀の様子:大阪ハリストス正教会のフォト・ギャラリーへ
ことばでは説明できません
でも、いくら言葉でご説明しようとしても、正教はうまく伝えることはできません。正教とは人間が頭で考え出した抽象的な「教義」でも、「歴史」でも、宗教「文化」でも、教会組織でもなく、教会生活の中に生きて働くハリストスの復活のいのちそのものだからです。教義も確立せず、歴史の積み重ねもなく、まして文化としてはまったく未熟で、しっかりした教会組織もなかった時代、そして現代においても、どんなときにも、信徒ひとりひとりを生かしているのはこのハリストスの復活のいのちです。いのちは言葉では伝わりません。体験の中からしかつかめないし、体験を通じてしか伝えられません。
だから、友に呼びかけたフィリップにならって「来て、見てごらん」(ヨハネ1:46)とお呼びかけするほかないのです。