2025年12月21日 — 大阪教会
ハリストス生まる!
この世界は、ずいぶん汚れています。そこで生きる私たち自身もそんなにキレイではありません。むしろひどくキタナイと言ったほうが当たっているでしょう。
しかしそれでも街路樹の梢で小鳥がさえずっていたり、赤ちゃんが無邪気に微笑んでいたりすると、私たちはそれを見て、この世界と人のいのちへの理屈抜きのいとおしさで胸が締めつけられます。
それは、この世界と人のいのちが、もともと、神様からのよい贈物だったからです。
しかし、人はこのステキな贈物を台無しにしてしまいました。
贈られた真新しい洋服にわずかなシミを付けてしまったとき、ぴかぴかの新車に小さな傷を付けてしまったとき、私たちは最初の美しさや輝きが、もう永遠に失われてしまったような悲しみにおそわれます。後は汚れるにまかせ、傷だらけになるにまかせ、ということになってしまいがちです。
同じ事が、人が神様から贈られた、この世界と、人のいのちに起きたのです。アダムとエヴァの小さな失敗がもたらした人の悲しみは、絶望へと腐ってゆきました。ふてくされた投げやりな思いのうちに、私たちは「人生なんてこんなもの」とキタナサに慣れっこになって生きています。
ハリストス・人となった神がお産まれになったのは、このような世界のまっただ中であり、このような私たちのためでした。
主は二千年前の、パレスチナの小さな町ベツレヘムにお産まれになっただけではありません。キタナイこの世と、この世界をキタナクしてしまっている当の私たちの内に、どこででも、何度でもお産まれになります。
それは、私たちが神様の愛をもういちど受け取り直し、与えられたこの世界を讃え、人々が互いのいのちを、もういちどいつくしみ合えるようになるための、「二度目の贈り物」としてご自身のいのちを私たちに下さるためです。
福音書はハリストスが、旅人でごった返す町の片隅の、小さな家畜小屋で、夜の町の一日の仕事を終えた人々のざわめきをよそに、ひっそりと生まれたと伝えます。お生まれになった神の子に会ったのは、ごくわずかな人たち、そして飼い葉桶をのぞき込むロバと牛でした。静かな夜だったでしょう。クリスマスの礼拝は華やかな中にもこの静かさをどこかで伝えています。
生きることが喜びであった時を、また喜びであるはずのいのちを、失って、私たちはもう何年涙を流し続けてきたでしょう。
この静かさの中で、私たちは、私たちの内にお生まれになった幼子ハリストスを探さなければなりません。耳を澄まさなければなりません。そして、生きることへの、この世界への、自分の惨めな心の姿への、胸をかきむしられるような悲しみを、私たちの内に「今」お生まれになったハリストス・神の悲しみとして見つけ直さなければなりません。
しかし、実はその時にはもう、私たちにあるのは悲しみばかりではありません、そこには喜びが育ちはじめています。ハリストス・神は、「泣く者はさいわなり、彼らは慰められんとすればなり」とお約束されました。このお方が、「我らとともに」、「我らの内に」あって、歩んでくださるからです。
「地には平安下り…」、そうハリストスが「平安」・和解として生まれました。
「人には恵みのぞめり」。…神の恵みがすでにもう、私たち互いの間に差し出され、受け取られるのを待っています。(ルカ2:14)
ハリストス生まる!
讃めよ!