2025年12月7日 | 大阪教会
ある安息日、会堂で人々がイイススの話に耳を傾けていました。その中に十八年間も腰が曲がったまま体を起こせない女がいました。主は、女の体に手を置きました。女は直ちにまっすぐに身を起こし、神を讃え始めました。
その時です、会堂の司が、いきなり怒り始めたのです。
「今日は安息日だ、病気を治すことは禁じられている」。そして人々に向き「おまえたちも病気を治して欲しかったら、ほかの日にしなさい」。
これを聞いてイイススは激怒しました。「偽善者どもよ!」…。
会堂司の怒りに対して、イイススも「偽善者ども!」と最も激しい怒りで答えたのです。そして言い放ちました。
イイススの怒りは、彼らの形式主義や権威主義に向けられた、そう思いますか。違います。一人の人間が長い苦しみから解き放たれたのに、共に喜ぶのではなく、まず規則を破ったことへの怒りでしか応じない、その非情さに向けられたのです。
イイススの怒りはすぐに深い悲しみに変わったに違いありません。この会堂司や彼に同調する人たちの中に、十八年間も屈んだままで過ごさねばならなかった女をはるかにしのぐ、重い人間の病を見たからです。愛せなくなった人間。手を伸ばせば届くすぐ目の前で、一人の人間が癒された。地面に落ちる自分の涙ばかり見ていた女が体を起こし、手を天に差し伸べ、喜びに溢れて神を讃え始めた。それを見て、規則が破られたことへの憤りしか感じない心に、イイススは悲しみと、そして人というものへの憐れみを新たにしたのです。
主イイスス・ハリストスがご自身の十字架の死と復活で癒されたのは、実は、病気で腰の曲がった…、生まれつき目が見えない…、耳が聞こえない…、そんなハンデを負った人たちより、むしろ健康で、マジメで、勤勉ではあっても、人のつらさを自らのつらさとすることができず、また人の喜びをみずからの喜びとすることができず、…人の悲しみをみずからの悲しみとすることができず、当たり前の共感さえ分かち合えなくなっている私たちでした。地面ばかりみていた女が、再び身を起こされて、まっすぐになった体で天を仰いで感謝したというこの出来事は、実は同様に下を向いている私たち、自分のことにしか関心を寄せられなくなっていた私たちが、再び神を仰ぎ、ともに生きる人々を、神がこよなく愛するかけがえのない人格として、取り戻したことを表しています。それこそが「人となった神」ハリストスが成し遂げられた人の救い、神による人の「新たなる創造」でした。だからこそこのいやしは、神の創造を讃えるために他の日々から特別に区別された「安息日」に行われなければならなかったのです。
私たちは愛することのできる者へと癒されました。主の死と復活にあずかる洗礼の水で、愛せないこれまでの自分は死んだはずです。そして神の愛そのものといってよいハリストスと一つとなり、愛することのできる者としてよみがえったはずです。…「そんなこと、おとぎ話にしか感じられない」というのが実感かもしれません。でも、お願いです、ホントにお願いです、こんど怒りで声を荒らげたくなったら、胸に十字を切ってこらえてみませんか。こんど侮辱されて思わずこぶしを振り上げそうになったら、胸の十字架に手を置いてこらえてみませんか。何度かに一度はこらえられるはずです。その一度を「たった一度」と考えず、「できた喜び」の中で「その一度」をハリストスに感謝するのです。たとえしくじっても倒れてはなりません。ダヴィド王と共に「砕かれたこころ」で「救いの喜びを我に返せ」と求めて(50聖詠/51詩篇)、立ち上がってみませんか。
怒りを心に持ったまま、ねたみを心に持ったまま、憎しみを心に持ったまま、人への蔑みを心に持ったまま死を迎える人生は、たとえ生涯にわたって正義を貫いたとしても、山のようなお金を貧しい人々に施したとしても、しくじった人生です。そして忘れてはなりません、死はいつも目の前にあります。
忍び通し、赦し抜き、愛し尽くしたお方、そして何よりもよみがえったお方、ハリストス・イイススがいつも私たちと一緒にいて下さいます。