マトフェイ14:22-34 2023/08/06 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
夜の真っ暗闇の中、湖の向こう岸へ渡ろうと小舟を穏やかな風に委ねていたイイススの弟子たちを嵐が突然に襲いかかり、小舟は人の背丈もありそうな大浪に、右に左に、上に下に、ふき回されます。弟子たちはおびえふるえながら何時間もなすすべ無く、船べりにしがみついていたに違いありません。…ようやくあたりが白み始めた頃、弟子たちは何やら人の形をしたものが小舟に近づいてくるのを見つけ、「恐怖のあまり声を上げ」ました。「怪物だ!」。
しかし、それは海を歩いてやってきたイイススでした。声がかかります。「安心しなさい。わたしだ。こわがらなくてよい」。
これを聞いたペートルが「ではわたしにも水の上を歩かせてください」と願い出ました。「おいで」と手招きするイイススを見て、ペートルはそろりと水に足を入れます。なんと、水の上に立っている、しかも歩ける!…しかしそれもつかの間、ペートルは主から目をそらした一瞬、視界に飛び込んできた波と、風の音におびえ、水に沈んでしまいました。助けを求めるペートルの叫びに、イイススは手を伸ばし、腕を捕まえ言いました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑った?」。二人は小舟に乗り込みました。
ところで、この恐ろしい嵐のさまはこの世と、そこを何とか「向こう岸まで」渡ってゆこうと苦闘する私たちの人生そのものです。私たちは、この世という深い闇のただ中で、怯えと混乱に、不安と焦りに、叫びを上げて立ちすくみ、右往左往あてなく動き回ったり、時には衝動的に闇の中へ突進したり、そして疲れ切ってしゃがみ込んでしまいます。
「こわがらなくてよい。わたしだ」。弟子たちの乗る小舟に近づいてきた主のこのことばを、心の一番深いところで抱きしめてみませんか。
「こわがらなくてよい。わたしだ」。
「わたしだ」と言うだけで、「わたしは力ある者」だとも「わたしは神だ」ともおっしゃらない。しかしお弟子たちは、この「わたしだ」という呼びかけを聞いたとき、自分たちの前に立つお方が誰であるか、すぐに悟ったはずです。
聖書が教える「わたしだ」という名のお方は、神さまお一方だからです(出エジプト3:14。
イイススというお方を見つめましょう。イイススに頼み、すがりつきましょう。自分を追い払わないイイスス、自分をいじめないイイスス、自分のことをうざったいと言わないイイスス、自分に目をとめてくれるイイスス、自分のために泣いてくださるイイスス、…自分のために苦しみ、そして死んでくださるイイスス、その大好きなイイスス。このイイススがいつでも、どこでも、どんなときにでもそばにいてくださり、私たちが不安や恐怖に足がすくんでしまったとき、いや怒りや憎しみで目を真っ赤にしているときでさえ、「こわがらなくてよい。わたしだ」と声をかけてくださいます。この声が聞こえたら、たとえ死を目前にしていても、私たちは…、抱き取られるようにおびえや憎しみから救い出されます。
そんな声は聞こえない。そうかもしれません。聞こうとしなければ聞こえません。自分が不安や恐怖や混乱のうちにあることを、自分自身に正直に認めなければ聞こえません。自分が打ちのめされ、力尽きてしまっていることを自分自身に潔く認めなければ聞こえません。自分が憎しみや怒りにとらえられて心を真っ黒にしていることをちゃんと認めなければ聞こえてきません。
そして、自分が自分に対してもまったく無力な者であることを自分に対してまっすぐに認めたら、つぎに心に言うのです。「こわがらなくてよい。わたしだ」。ゆっくり、繰り返し、言うのです。「こわがらなくてよい。わたしだ」…。だんだんと、心が温まってきます。やがてその声は自分の声ではなく、私たちは知らなくても、私たちは忘れていても、…決して私たちを離れない、忘れないお方、イイスス・救い主、ハリストスの静かな呼びかけに変わってきます。「こわがらなくてよい。わたしだ」。
すばらしい贈り物が待っています。あたたかい涙が溢れます。
弟9主日のお説教…
安堵と勇気が芽生えてきます。
「こわがらなくてもよい。
わたしだ」をゆっくりくり返しながら
イイススはそんなに近くにいてくださることを忘れずにいきたいと思います。
神父様の
あたたかい[ tender]お説教に感謝しつつ…
涙が溢れます…。
2023.8.8