説教 マトフェイ14:14-22 2023/07/30 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
イイススをしたって飲まず食わずで遠い道のりをついてきた大群衆を前に弟子たちは、「彼らは何も食べていません、そろそろ解散させましょう」と主に促しました。イイススの答えは意外なものでした。「そんな必要はない。あなた方の手で食物をやりなさい」。弟子たちはあっけにとられて思わず声を高めて言いました。「わたしたちはここに、パン五つと魚二匹しか持っていません」。
「…しか持っていない」。この弟子たちの思いは、この世で生きる私たち共通の思いです。人生感覚の基調をなすものといっても言い過ぎではないでしょう。「当たり前じゃないか、私たちの必要を満たすにはあまりにも世界は貧しい」。しかし、ハリストスはこの「当たり前」をくつがえしました。「パン五つと魚二匹」は五千人の男とその家族たちをふくめた何万人もの人々の飢えを満たし、その上、十二のかごに山盛りのパンが残りました。
ハリストスを信じ、弁当を用意することすら忘れ、ひたすらまっすぐに主に付き従ってゆく人々、その群れの中でパンを祝福するハリストス、そしてそれを人々に分け与える者たち…、この交わりの中で、「…しか持っていない」貧しさは尽きることのない豊かさへとくつがえされたのです。これは教会です。世の終わりに主が再び地上においでになり、この世をくつがえし打ち立てる「神の国」の初穂としての、「神の国」の食卓の先取りとしての教会であり、そこで祝われる聖体礼儀です。
6月、7月と教区会議、全国公会、信徒総会と会議が続きました。そこでは私たちの貧しさ、「…しかない信徒数」「…しかいない教役者」、「…しか集まらない献金」、…が浮き彫りにされました。いずれも具体的な施策が求められる大事な問題です。しかし決して忘れてはなりません。大きな組織であること、財政が豊かであること、立派な建物や施設を持っていること、手際よく問題が解決されていくこと、それが神の祝福のしるしだと、主は一度たりともおっしゃってはいません。私たちにまず必要なのは、もしかしたら真剣に取り戻さなければならないのは、まさにこの、わずかな食物が五千人を満たした奇跡を目撃した使徒たちから、まっすぐに伝えられてきた真の教会の、まっただ中には、いつもハリストスがいらっしゃり、私たちはそのお体を、その血を永遠のいのちの糧、途方もない充溢、すなわち無限にあふれこぼれる豊かさとして分かち合っている、そのことへの感謝と喜びです。聖体礼儀に溢れている喜びです。
この世的なたんなる数量的尺度で教会の現状、また力量を評価し、この世的な知恵にたよって計画を立て、対策を求め、行動してゆくこと…、それがめざましい成功を収めることもあるでしょう。しかし私たちクリスチャンはまず、ハリストスとともに生き、ハリストスに導かれ、ハリストスご自身のお体と血をいただいて生きる、五つのパンと二匹の魚がそこに集う者すべてを満腹させてしまう、そのとんでもない豊かさにあって、(私たちクリスチャンは)生きているのです。それを忘れるなら、私たちは弟子たちの過ちを繰り返すことになります。その過ちとは、彼らがまず「群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに村々に行かせてやってください」と願ったことです。他でもないそこに生身のお体で立っている「いのちの主」に、あふれこぼれる豊かさの源であるお方に、この世的な思い計りを願い出たことです。
「群衆を解散させ…」、…教会がその集い、その交わりを自ら否定し、神の恵みを否定し、それをこの世的な算段に引き渡してしまうことです。
私たちがまずなすべきことについて、聖使徒パウェルはこう呼びかけます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」(フェサロニケ5:16)。