説教 マトフェイ9:27-35 2023/07/23 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
二人の盲人がイイススにすがりつき「憐れんでください」と願いました。主はたずねました。
「わたしにあなたたちの目を開くことができると信じるか」。
「はい、信じます」という彼らの答えを聞くと、主は彼らの目に触りました。そして言いました。「あなたたちの信じる通りになるように」。彼らの目は開きました。本日の福音が伝えるいやしです。
ところで、目を開かれた二人が最初に見たものは何だったでしょうか。
…目に突然さし込んできたまぶしい光にようやく慣れたとき、彼らがそこに見たのは、イイススの姿だったに違いありません。そのお方が、彼らを闇から引き出してくれました。新しいいのちを与えてくれました。彼らと共に生きてくださると約束してくれました。…彼らがまず見いだしたのは、これまで彼らの目には、そして心には、隠されていた、その喜びの現実です。
では次に彼らが見いだしたのは何だったでしょう。
お互いです。目を開かれた奇跡をなかば信じられない思いで主を仰ぎ見ている、そして喜びに踊り上がらんばかりのお互いを、彼らは見つけたのです。彼らはしっかりと手を握りあい、互いを抱きしめあったに違いありません。
これは、教会ではありませんか。
いまここに集められた私たちの主イイススとの出会いは様々です。ある人たちは、イイススのことを、幼いときから身近に聞いていました。両親や祖父母に手を引かれて教会に連れてこられたでしょう。いやいやだったかもしれません。たんに「ご祈祷」のあと友だちと遊ぶのが楽しかっただけかもしれません。また正教の信徒家庭に嫁いだ嫁のつとめとして、お姑さんに連れられて教会に通い始めたという方もいるでしょう。そんなに心躍るものではなかったかも知れません。
しかし、こんな方たちにも、心の深いある場所でイイススと出会い、己れの人生に迎え入れた「ある時」がなかったでしょうか。あったはずです。習慣や義務感だけでこんなにも長い年月、教会に通い続けることはできません。
いつも共にいて、喜びも悲しみも分かち合ってくださる主として、また、取り返しのつかない過ちを犯してしまったとき「もう心配するな、立ちあがりなさい」と赦しを与えてくださる主として、主を仰ぎ見はじめた時がなかったでしょうか。また、ある人たちは「イエス・キリスト」をたんに知識として知っていただけかもしれません。しかし、そういう人々もある日突然、そのたんなる「イエス・キリスト」が、まったく異なった姿で自分の人生を未知の世界、新しい世界、心躍る喜びへとぐいぐいひっぱてゆくお方として、知識としてではなくいのちの伴侶として見つけ直した時があったはずです。
そして私たちは、気づいたとき、教会という交わりの内に、自分と同じようにハリストスによって心の闇を開かれて、ハリストスというお方と共に生き始めた「お互い」を見いだしたということです。これが教会です。
人となってこの世に来られた神の子・ハリストスは、ご自身を通じて、わたしたちをもう一度神に結びつけました。そして、ご自身に結ばれた者として私たちを孤独の闇から救い出しました。私たち人はふたたび、互いが互いのために存在し、互いのよろこびが、まさに自らのよろこびである交わりに生き始めました。互いが全く自由でありながら、ハリストスへの信仰を通じてかたく一致しているという新しい生き方に生き始めたのです。
これが教会です。これがハリストスによる救いです。「神の国」です。
最後にもうひとつ気づいてほしいことがあります。二人の盲人、いや私たちの目が開かれるより前からすでに、ハリストスは人々に寄り添ってくださっていたことです。目を開かれて人は初めてそれを知るのです。恵みとして。
お家の部屋の片隅にずっと昔から置かれていたハリストスのイコンが、静かに自分を見つめ続けていたことに、いつお気づきになりましたか…。