ルカによる福音 18:18-27
2025年12月14日 | 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
「人にはできないことも、神にはできる」。
本日の福音は、「富んでいる者が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴に入る方がやさしい」と主イイススが仰った、あの出来事を伝えます。今日は、福音をこの最後のことばから前へと、さかのぼってみましょう。
「人にはできないことも、神にはできる」。
これは「富んでいる者が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴に入る方がやさしい」という主の言葉に、人々が「では誰が救われるんだ」と思わず声を上げたときの答えです。
イイススの時代、富むことは神の祝福の証しでした。だからこそ人々は声を上げたのです。「じゃあ誰が救われるんだよ!」。これに対しイイススは無言でうなずいた上で、「でもね、人にはできないことも神にはできるんだよ」と仰ったわけです。人を救うこと、それは「神がなさること」なのです。
それなのに、それがわかっていない人がいたのです。「神がなさること」を、自分の力でしようとした人がいたのです。
彼はまずイイススにこう尋ねました。「何をしたら、永遠の生命が受けられますか」。イイススは答えます。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、両親を敬え」。「律法はそう戒めていなかったかな」というわけです。
彼は胸を弾ませます。「そんな戒めはみんな子供の時から守っています」。それを聞いてイイススはこう付け加えます。「持ち物をみな売り払って、貧しい人々に分けてやり、そして私に従ってきなさい」。それを聞いて彼は「顔面蒼白」です。捨てなければならないものをたくさん持っているから。彼は「隣人を愛せ」という戒めもしっかり守ってきたと言っています。きっとこれまで気の毒な人たちに気前よく施していたのでしょう。しかし主が仰ったのは「皆売り払って」です。彼は「非常に悲しんだ」とあります。
イイススはとどめを刺しました。
「富んでいる者が神の国に入るよりは、
ラクダが針の穴に入る方がやさしい」。
彼はなぜしくじったのか。このしくじりは実は人ごとではありません。私たちクリスチャンが、いつ落ちてもおかしくない落とし穴です。
彼は主に「何をしたら、永遠の生命が受けられますか」と尋ねました。永遠のいのちは(救いは)何かしたことの結果として、手に入ると思っています。「何もしないで何かを手に入れられると思ってる怠惰な人たち」を裁く現代人には、何の違和感もありません。しかしイイススという方と向かい合ったとき「何をしたら」と探し回るなら、しくじります。
もちろん、何か具体的な課題があれば「主よ、私は何をすべきでしょう」と祈り求めるのは当然です。しかし「どんな善いことをしたら、私は救われるのか」、これは主イイススを完全に見誤った問いかけです。しかし、この人がこのお門違いな問いかけをしてしまったのは、当然です。彼が主のもとに来てまず発した言葉は「よき師よ」、そう「よい先生よ」という呼びかけでした。彼は何か有益なことを教えてくれる先生として、イイススを理解していました。
本日は、読まれた福音をさかのぼっています。いま「よき師よ」という最初の言葉に最後にたどり着きました。そしてイイススを「先生」と見なすことがお門違いだという結論に達しました。ではイイススを何と呼べばよかったのでしょう。その答えは、本日の福音の直前に伝えられているエピソードに遡ればわかります。
イイススにさわってもらおうと人々が幼な子たちを連れてきました。主に向かって歓声をあげて突進する幼な子たちを弟子が制します。主は弟子たちに「よしなさい」と諫め、子供たちを抱き取って人々に教えました。
「神の国はこんな者たちの国なんだよ。よく聞け。この幼な子たちのように、神の国を受け入れる者でなきゃ、だれもそこには入れっこない」。
イイススは「幼な子」たちが走り寄る、まさに神の国、永遠のいのちそのものです。私たちに求められるのは「何かする」ことでも、「立派な信者になる」ことでもなくイイススをまず絶対の信頼のうちにおのれの人生に「受け入れる」ことです。「何をすべきか教えて」ではなく「あなたのいのちを下さい」と手を広げればいいのです。
私たちにできないことは神がしてくださいます。