イオアン1:43-51 2025/3/09 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
今日の福音、アンドレイとその友達がイイススに出会います。彼らはイイススと一晩語り明かしました。彼らはイイススがメシヤであることを確信します。そしてアンドレイの兄弟ペートルを主のもとに連れて行きます。次の日にはフィリップが主に出会いました。主はフィリップの心に深い渇きを見ました。そして命じます。「わたしに従ってきなさい」。フィリップは心にあふれ出た喜びを押さえきれず、ナタナエルのもとに駆けつけます。「モイセイや預言者たちが預言していた救い主に出会った。ナザレのイイススだよ」。これまで聖書にかじりついていたナタナエルは信じません。「冗談じゃない、ナザレに救い主が現れるなんえ、聖書のどこにも書いてない」。「ごちゃごちゃ言わずに、来て見てごらん」。フィリップはナタナエルを主のもとに引っ張ってゆきます。主はナタナエルがそれまでイチジクの木の下で救い主の到来に思いをめぐらしていたことを言い当てます。ナタナエルは、叫びました。「あなたは神の子です、イスラエルの王です」。
青年たちの瞳の輝きや、友のもとに駆けて行く若々しい肉体から飛び散る汗のきらめきまで見えてきそうな、スピード感溢れる出会いの物語は、この「あなたは神の子です、イスラエルの王です」という叫びで頂点に達します。
この「あなたは神の子、イスラエルの王」という叫びでわかるように、ナタナエルが、青年たちが、いやユダヤの人々が待ち望んでいたのは、そして彼らがイイススに見たと信じたのはイスラエルの解放者でした。外国の支配や、社会的権威による不正や圧迫から、神の民・選民イスラエルを解放する英雄でした。
しかしイイススの十字架の死で明らかになったように、彼らはイイススがどのような意味で「救い主」であるのかを見誤っていました。いや彼らはそういうイメージでしか待望の「救い主」を思い描けなかったのです。長い間他国の支配に屈し続けてきたのですから、やむを得ないことでしょう。ちょうど私たちが、天国や幸福という言葉に、会社や職場、またこの世のしがらみや気遣いから解き放たれて贅沢に遊んで暮らせる生活しか思い浮かべられないのと同じです。しかし実は、私たちがそのような地上的な望みの装いの下でほんとうに求めているものはもっと別のものであり、ただ、それを言い表す言葉を知らないだけなのです。
イイススはそこを衝きます。
「これよりももっと大きなことを、あなたは見るであろう。…よくよくあなた方に言っておく。天が開けて、神のみ使いたちが人の子の上に上り下りするのをあなた方は見るであろう」。
「天が開ける」? なんだこれは! 神のみ使いたち(天使たち)が人の子(イイススご自身)の上に上り下りする? なんという不思議な言葉だろう。この驚きが大切なのです。そこにある、何だかわくわくしてくるようなイメージに、まず心を引っ掴まれねばなりません。
…幸せといえばお金、せいぜい家族の安全無事ぐらいしか考えられない、また天国といえば美しい音楽と咲き乱れる花々ぐらいしか思い浮かべられない、こんな目に見えるもの、さわれるもの、聞こえるもの、知っているものだけに凝り固まっている私たちの想像力を、ハリストスは私たちがかつて聞いたこともない言葉でガンガン打ちたたき、打ち壊してしてしまおうとしているのです。
なぜなら、ハリストスのお始めになるものが、これまでの古い精神、古い言葉、古い想像力の中には決して収まらない、まったくの新しさだからです。
先週から大斎に入りました。私たちは今、イイススに出会うまでの若き弟子たちと同じように、「いのちの渇き」を深めて行く長い旅を旅しています。この旅の終わり、この「いのちの渇き」がきわまった時、十字架上で「わたしはかわく」とひとことつぶやいた主と共に、私たちもひりひりするような魂の渇きの内に古き自分を死にます。そしてパスハ(復活大祭)の輝かしい祝いの中で主と共に、私たちも新しい自分に生き始めます。まさに「天が開け」ます。開けた天から神の息吹き(聖神の恵み)が吹き下ろしてきます。舞い翔る天使たちとともに、ハリストスに伴われこの息吹きに、この神の風に、心の翼を広げて、限りなく神に向かって昇ってゆく、新しい、まことの自由が約束されています。その約束を信じて、風に乗りましょう。