マトフェイ8:5-13 2025/07/06 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
イイススのもとに、一人のローマ軍の百人隊長(百人の部下を保つ将校)が中風で苦しむ僕(従卒)の癒しを求めて、やってきました。「ではあなたの家に行って直してあげよう」と腰を上げた主を押しとどめ、彼はこう言います。「私には、家にあなたをお迎えできるような資格はありません。お言葉をくだされば十分です」。これを聞いて主は彼の信仰を讃え、「行け、あなたの信じた通りになるように」と命じました。その時僕は癒やされました。自分の資格無さを知る彼の謙遜さが主の祝福を引き出したとよく説かれます。
しかしこの出来事を、主の祝福が欲しいならこの百人隊長にならって「謙遜という徳を身につけよ」という教訓として受け取ると、この出来事が伝えるもっと大きな福音、「喜びの知らせ」が浮かび上がってきません。もし彼が、謙遜さを神の祝福を受ける資格と考えていたなら、彼はどのように、自分がその「資格」を持っていると思っていたのでしょう。こうではないでしょうか。「自分は、自分に資格のないことを自覚する謙遜さを持っているから、資格がありますよね」。こんな、ある意味トンチンカンなカンチガイを主が祝福するでしょうか。
…次の、聖使徒パウェルの言葉は福音の根っこにあるものです。
「…正しい者はいない。一人もいない」。
資格を問題とする限り私たちはハリストスの救いを受け取れません。百人隊長に「私はあなたを家にお迎えすることなどできません」と言わせたのは、資格があるか無いかをまず考えてしまう縮こまった思いではありません、天地の一切を思うままに従わせることのできる創造主、神の子を前にした、聖なる者への畏れ、慄え(ふるえ)以外の何ものでもないのです。
本日の福音が「福音」であるのは神、世界を創造したお方が、創造された者との間にある途方もない隔たりを越えて、人となりここに来てくださって、人々の前に立っているということです。(今も、ここに・・・)
それでも百人隊長の側も、たとえ僅かな距離でも駐屯地から主の前に歩み出してその面前に立ちました。
聖体礼儀でご聖体をいただく直前、司祭は「聖なるものは聖なる人に」と声をあげます。会衆は「聖なるはひとり、主なるはただひとり、神・父の光栄をあらわすイイスス・ハリストスなり。アミン」と応えます。私たちには聖なるもの、すなわち唯一聖なるお方である神の、その御子のご聖体をいただく資格などありませんという表明です。ではご聖体から身をひくのでしょうか。いいえ反対です。
至聖所の扉が開き、ハリストスの尊いお体と血が「神を畏れる心と、信仰とをもって近づいてきなさい(近づき来たれ)」と示されます。そして、私たちは主の前に歩み出ます。神と人との無限の距離を超えておいでくださったお方の「近づき、来たれ」という呼びかけに応えます。問題は資格ではありません。「ハリストス、神の子よ、あなたと一つになりたい」というハリストスへの信仰、希望、そして愛です。