ルカ8:26–39 2025/11/09 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
湖を吹きすさぶ嵐をたった「ひとこと」で鎮めたイイススは、こんどは長い間家に居つかず、着物も着ずに墓場をさまよっていた男に出会います。彼はイイススを見て叫びました。「いと高き神の子イイススよ、私にかまわないで下さい。お願いです、私を苦しめないで…」。
彼は鎖で縛られ、足かせをかけられていましたが、すぐにそれを断ち切ってまた墓場のある荒れ野へ戻ってしまいます。同じ出来事を伝えるマルコは、「誰も彼を抑え続けることができず、夜昼たえまなく墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた」と、そのおぞましい姿をありありと伝えています。
私たちもしばしば、このような荒れ狂うたましいに出会います。それは孤独なたましいです。自分は誰からも認められない…、誰かに認められたい、何が何でも認めさせてやる、振り返らせてみせるという激しい情念が荒れ狂い、その言葉は「叫び」としか、わめきとしか聞こえません。「見てくれ、自分はこんなに惨めだ。見てくれ、それでも自分はこんなに生きたいんだ。見てくれ、こんな自分に誰がしたんだ」。そう叫びながら、それは破滅へと、酒やたばこやドラッグへと、投げやりな浪費へと、自堕落な欲望のさまよいへと、落ちてゆきます。その姿は、石で自分を傷つけるあの男と同じです。
そんなたましいを前に、私たちは何とか彼らを引き戻そうと、さまざまにあの手この手で働きかけます。時には叱りつけ、時には励まし、時には慰め。しかし「抑えつけておくことはでき」ません。何とかしてやりたいと手を尽くせば尽くすほど、荒れ狂うたましいはその熱さを増し、その混乱するエネルギイは、触れる者を巻き込み、助けようとする者を、彼らが落ちている奈落に引きずりこんでゆきます。やがて彼らに愛を注いでいたはずの私たちの内に、いつしか彼らへの憎しみや怒りの嵐が荒れ狂い、「押さえつけておく」ことができなくなります。
本日の福音、よき知らせは、こんな人間の惨めさを教えるだけで終わってよいのでしょうか。…しかしこの荒れ狂うたましいを人の現実として、そして実は何より自分自身の内にも潜む現実として知らなければなりません。また「まともな」私たちにとっては、その現実はいろんな偶然で表に出ていないにすぎないことを知らなければなりません。私たちの「まともさ」は、「よい子になれ」としてしつけられた者のもつ器用な、そして頑固な自己抑制がまだ余力を保っているだけであることを知らなければなりません。その時はじめて、イイススが「汚れた霊よこの人から出ていけ、豚の群れに入ってしまえ」とお命じになったとき、一瞬にしてたましいの嵐が、心の波騒ぎが鎮まったことを、唯一つの希望、まさに福音として知るのです。そのとき私たちは聖使徒パウェルと共にうめき、そして讃えます。「わたしは何と惨めな人間なのだろう。だれがこの死の体からわたしを救ってくれるだろうか。私たちの主イイスス・ハリストスによって。神は感謝すべきかな」。
このお方、悪霊たちを従わせることができるただ一人のお方を前にして私たちがまずしなければならないのは、このたましいに荒れ狂う風や波に対する、自分自身の全くの無力をあのパウェルとともにトコトン知ることです。それを知って、自分の力でそれらと戦おうとする思い、――それは祝福された霊的な雄々しさであるより、まことにうかつな「おれは戦える」という思い上がりであることの方が圧倒的に多いのですが――、その自力で何とかしようという思いを一切捨て去ることです。「自分にはできる、自分で何とかしなければならない」という思いこそが、実は、たましいをやがて荒れ狂わせることになる嵐の前触れなのです。
そして、ハリストス・神に祈るのです。彼の、彼女の、そして私自身の、たましいを苦しめる、荒れ狂う風や波をお叱りください…。