📖 ルカ7:11–16
2025年10月19日 — 大阪教会
✝ 父と子と聖神の名によりて ✝
イイススは救い主です。預言者イサイヤが、やがて来る救い主は「悲しみの人で、われわれの病を知っており、われわれの悲しみをになった」と預言した。その預言通りに、神がこの世に送ったのは、私たちの「悲しみを知っている」お方です。
およそ二千年前、ナインという町の城門近くにも、悲しみにくれる人が一人、棺に付き添っていました。夫に先立たれた後、唯一頼りにしていた一人息子が死んでしまったやもめの婦人です。野辺送りの行列に、ただうなだれ、よろよろついて行くばかりのその姿に、通りかかったイイススは「深い同情」を抱きました。原語での「深い同情」は「腹わたが揺さぶられるような思い」を意味します。「悲しみの人、われわれの悲しみを知っている人」の悲しみは、激しく、体全体を揺さぶるものです。
これは、気の毒な人を見て「ああ、かわいそう」と言ってすぐに話題を変えるような同情ではありません。
また「人間とは悲しい存在だ」と誇張して自分を見せびらかす悲しみでもありません。
あるいは「政府は遺族の悲しみを理解しているのか」と拳を振り上げるような叫びでもありません。
そうではありません。イイススの悲しみは、それらとは全く違います。
イイススの心と体すべてが、この女性の悲しみに捉えられ、ふるえています。この悲しみは、「人間存在の悲劇性」や「人間性の深い病」への悲しみではありません。しかし、このやもめの女性の前に立つとき、それは別のものです。言葉を失うほどの個人的な悲しみです。「おまえは何と!」— 内臓が締め付けられるような、体全体が引きつるほどの悲しみです。
この悲しみは、向けられる一人ひとりの悲しみと一つです。他の誰でもない、この「私の悲しみ」を抱きしめてくれるお方の悲しみです。私たちが体いっぱいで知った悲しみと一つにされ、思い出すたび体中に蘇り、魂を凍りつかせる悲しみです。私たちには向き合い続けられず、心の奥に閉じ込めざるを得ない悲しみと一つになっています。
ここには、悲しむ憐れな人と、上から同情するイイススがいるのではありません。
やがてイイススは棺に手をかけ、女に「もう泣かなくていい」と告げ、横たわる遺体に「さあ起きよ」と命じ、一人息子をよみがえらせました。
しかし今日、私たちにまず感じてほしいのは、よみがえりの奇跡の偉大さではなく、神であるお方、神が人となったお方が、私たちをこれほどまでに深く憐れんでくださっているという、想像を超えた神の愛の激しさです。
すべての人は、この「悲しみを知る」お方の愛の内に命を与えられています。このお方は今ここに生きる「私」への、腹わたが揺さぶられるような悲しみに貫かれ、寄り添ってくださっているのです。瞬間も目をそむけず、一人ひとりの悲しみをご自身の悲しみとして分かち合ってくださっています。
だから私たちの悲しみは、悲しみでありながらも、もはや悲しみではありません。
このお方は、「死」という人間の悲劇の極みに勝ち、よみがえったお方だからです。