📖 ルカによる福音書 6:31-36
2025年10月12日 — 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
「自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか、罪人でさえ自分を愛してくれる者を愛している。自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいのことはしている。返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである」
「自分を愛してくれる者を愛する」「自分によくしてくれる者によくする」「返してもらうつもりで貸す」、別に悪いことじゃないじゃない、…ですか?
しかし、これは裏返せば恐ろしい「世界の現実」です。「自分を憎む者を憎み返す」「自分に悪いことをする者に悪いことをする」「返すことのできそうにない者には何も貸さない」生き方です。古来、そして今も人間とその世界を覆い尽くし続けてきた古い生き方です。だから、人生は苦悩です、世界は悲劇の舞台です。それを当たり前のこととして疑わない、古い生き方です。
この古さの根っこにあるのが実は、人と神との関係のゆがみです。人は神とさえ取引しようとします。善を行えば報酬が与えられ、悪を行えば罰を受けるとしか考えない、神さまもまた、「返してもらうつもりで貸す」お方だと思い込んでいる、愛や感謝を失った神との関係です。人生は寒々とした点数稼ぎの場でしかありません。人の思いは優等生のうぬぼれか、劣等生の怯えやひがみのどちらかでしかありません。神にすら感謝しない者が人に感謝するでしょうか。神をすら愛さない者が人を愛するでしょうか。神に対してさえ自分を閉ざす者が人との分かち合いに入っていけるでしょうか。これがユダヤ人たちの律法主義的な生き方が端的に暴露している、実はすべての人類が感染してしまった堕ちた世界の古さです。
この古さのただ中にハリストスは「新しさ」として生まれました。その新しさを「敵にさえも及ぶ愛」として教え、その新しさを身をもって示しました。主は自分を愛さないどころか、自分を憎み、殺そうとする者たちのためにすすんで十字架の苦難を受け、その苦痛の中で彼らのために祈り、そして死にました。その時、それまで人間を縛り付けてきた古き生き方は、主と共に十字架に釘つけられ終わりを告げました。それは新しい生き方がその「終わりから始まる」ためでした。三日目に主はよみがえりました。私たちにこの新しさを与えるために。
この新しさの中で、敵ですら愛する愛を生きることの中で、はじめて私たちはほんとうの喜びを味わいます、ほんとうの自由を手に入れます。愛することができないことを悲しさとして、人を赦すことのできないことを苦しみとして、憎しみを心の傷口を焼く火箸として味わい続けてきた私たちは、この神の途方もない愛を、ご自身を呪う者すらお赦しになる愛を、ただ感謝し讃えるほかありません。
このハリストスがもたらした新しさがこのという名の(聖体礼儀)にあります。その新しさが決して幻でないことを聖神が私たちにここで教えます。ここに集う私たちはハリストスの新しさを生き始めました。まだ憎い者、愛せない者、赦せない者がたくさんいます。それでも私たちは、ハリストスの十字架の愛の記憶の中でその憎しみを、愛せないことを、赦さないことを、本来あってはならないこと、自分自身の最大の罪であり、当然の苦しみとして知ります。そして何より神の最大の悲しみとして知り始めます。しかし、その十字架の愛の記憶は私たちを希望へと引き起こしてくれます。そのお方は私たちと同じ「人の子」であったから、その方はいつも私たちと共にいると約束して下さったからです。その喜びがここにあります。
この喜びを知る私たち一人一人が、この無償でいただいた愛への喜びと感謝として、それぞれの生活の場で、こだわりや、憎しみや、敵意を克服して愛し赦し合う時、この新しさが私たち一人一人とその生活の隅々を満たし、生活全体を感謝の場、礼拝の場へと変えてゆきます。「人の子」に過ぎなかった私たちはついに、よみがえったハリストスとともに「いと高き者の子」となってゆくのです。 もしこれがおとぎ話にしか過ぎないと思う方がいらしたら、心からこれが真の幸せを手に入れる道と信じる他の道を教えて下さい。