第17(18)主日説教
ルカ5:1-11
2025/10/05 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
人は少しでも「よい人」になろうと、正しい者になろうと、みんなに愛される者になろうと、一生懸命努力します。しかし心の中を覗いてみれば、少しも善い人間になっていません。
「夜通し働いたけれど、何もとれなかった」漁師のペートル、疲れ切って座り込んだペートルの姿は、この私たち「働き者で誠実な」者の姿です。魂の闇雲な奮闘に疲れ切って、がっかりして座り込んでしまった、私たちの姿です。
疲れ切ったペートルの姿を見て、イイススは「沖へこぎ出して、そこに網を下ろしてごらん」と声をかけました。浅い岸辺近くで漁をするのはやめて、沖へ、深いところへいって、その深い水底に網を下ろして待っていてごらん、主はそう仰いました。
「よい人」になろうと、「正しい者」になろうと、人々に「愛される者」になろうと、私たちは一生懸命努力してきました。親たちから「いい子」になれと、先生からは「社会に尽くせ」と教えられ、その教えに応えようと全力をそそぎ出し続けてきました。イイススはそんな「夜通し働いたけれど、何もとれなかった」私たちに優しく呼びかけます。「やれやれ、たいへんだったろう、でもそういうことはいったんすっかり忘れてしまいなさい。自分の心のいちばん深いところに網を下ろして、焦らずに待ちなさい。そして私のことばを、善い人間になるための手引きとしてではなく、あなたをお造りになり今も、このたった今も、自分を生かしているお方から、贈られる「いのちのことば」として、心の耳をすましなさい」。主は私たちにそう呼びかけます。
そして、驚くべきことがおきます。
主のお言葉に「漁師でもないイイスス様には何もおわかりになっていない」と首を振りながらも、しぶしぶ従って言われた通りに下ろしたペートルの網には、いつの間にか「おびただしい魚の群れが入って」、いまにも破裂しそうです。大急ぎで仲間を呼んで引き上げた無数の魚の重さで、舟は沈みそうです。ペートルはイイススの膝元にひれ伏して思わず叫びました。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
「わたしは罪深い者」。ハリストスというお方を、善い人間になるための先生とか、善い生き方を実践して見せてくれるお手本とか、そんなお方としてではなく、「いのちのことば」であるお方として、まさに自分という存在のいちばん深いところから自分を生かし始めた「いのち」として知ったとき、私たちは初めて心から「わたしは罪深い者です」とひれ伏します。このお方がいつも手を貸そうとすぐそばにいてくださったのに、独りぼっちで格闘し、自分自身のたましいの奮闘努力をたよりにして生きていこうと、闇の中をもがき続けてきたすべてが、罪としてハッキリ見えてくるのです。とんでもないことが、この俺に起きた。これまでまったく何も知らなかった世界が突然目の前に開かれた。網の中に踊りはねる無数の魚たちの銀鱗の輝き、網を持つ手にぶるぶる震える力強い手応え、それを体いっぱいに喜びとして感じながら、私たちはそれまでの、独りぼっちで善い人間、正しい人間、愛される人間になろうとする的はずれの苦行をはっきりと罪として知るのです。そして同時に、そのような「的はずれ」な生き方から自分が解き放たれた喜びにふるえます。それが私たちの思いをすべて越えたお方から、この罪深い自分にそそぎ出された「おそるべきめぐみ」、そして何よりも愛であったことに、私たちは戦慄します。
イイススは、ご自身の膝元でふるえているペトルにこういいました。
「おそれることはない。いまからあなたは人間を取る漁師になるのだ」
この同じ、おそれと喜びにあって、まさに「人を取る漁師」として生きた聖使徒パウェルはこう言っています。
「わたしたちは、…途方に暮れても行き詰まらない。…倒されても滅びない。…それは、イイススのいのちがこの身に現れるためである。…それは、主イイススをよみがえらせたかたが、わたしたちをもイイススと共によみがえらせ、…共にご自身のみまえに立たせてくださることを知っているからである。
すべてのことが益となる。…わたしたちは落胆しない」。