2025/09/28 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
「我ら人々のため、また我らの救いのために、ポンティピラトの時、十字架に釘打たれ、苦しみを受け…」(ニケアコンスタンティノープル信経)
我らの救いのためにイイススは十字架で苦しまれました。私たちの救いのためには主の苦しみが必要でした。14世紀ビザンティンの聖師父カバシラスもこう言います。「主は最後の晩餐でパンとぶどう酒を示して『これはあなたがたのために裂かれるもの、あなたがたのために流されるものである』と告げた。『これは死者を復活させ、ライ病患者を潔めた、そう奇跡をもたらした私の体である』とは言わなかった。御自身のあまたの、目を見張るような奇蹟ではなく、その受難・その苦しみに、私たちの心を向けさせた。それは『主』の苦しみが奇蹟以上に必要だったからだ・・・」。
しかし「なぜ?」…。
この世に生きることは苦しいことだからです。そして、その苦しみには意味がなければならないからです。
ハリストスは人となった神です。初代教会はこの神秘を「おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで」と讃えました。主は私たちが背負うものはすべて背負いました。代わりにではなく、共にです。もし、私たちの罪に対する刑罰の苦しみを、主が「代わりに」十字架で受けて下さったというなら、なぜ私たちは依然として苦しみにあえいでいるのでしょう。
人となった神・ハリストスの苦しみは私たちのこの苦しみを神と共にする苦しみに変え、復活にいたる道へと意味を与えて下さった、…そうであってこそ、十字架の苦しみは、私たちの救いにとって意味があり、また私たち自身の苦しみは無意味ではありません。それを信じないなら、この世の苦しみは無意味な、持って行き場のない憤りを、ただただ燃え上がらせ、ついには私たち自身を燃やし尽くしてしまうだけの不条理に過ぎません。誰がいったい、そんな苦しみに「耐えなさい」などと、言えるでしょう。
「神は不公平だ、自分だけがどうしてこんなに不幸せなんだ」。まったく切実で、正直な叫びです。そう叫ぶ人たちを信仰が足らないなどと裁ける人はいません。「神は私たちが耐えられないような試練は与えません」(コリンフ前10・13)などとしたり顔で使徒たちの口まねをする資格のある人などいません。その叫びへの答えを「この世」で見つけることはできません。
主イイススでさえ、私たちの、「神様どうして」という叫びを裁かず、反対に十字架上でご自身が、「神よ、神よ、どうして、私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。何と神であるお方が!「神様からも無視されてしまった」、「神様からさえも見捨てられてしまった」という、人の究極の苦しみを、人の究極の孤独を共にして下さいました。
しかし、ここには、私たちの存在の最も深いところから私たちを揺さぶり溢れてくる喜びの「逆説」があります。共にされた孤独はもはや孤独ではありません。私たちの苦しみはすべて、このハリストス、いのちであるお方に導かれ、いのちであるお方と共に、いのちであるお方に向かっての歩み、その歩みに「必要なもの」へと変えられました。ここに希望があります。この神・ハリストスの愛を受け入れ、その十字架の苦しみを今度は私たちが進んで分かち合うならば、主とともによみがえりへの、いのちへの道を歩み出すことができるという希望です。この希望に励まされ私たちは洗礼を受けたのです、何度くじけてもそこに立ち戻って信仰を新たにしてゆきます。
「十字架挙栄祭」、この日に、主の十字架を美しく花で飾り、それに伏拝し口づけします。そこにあるのは、私たちの罪の償いのとしての十字架であるよりはむしろ、「生命を施す」十字架です。「恐れることはない、私はすでに世に勝っている」と宣言されたお方の勝利のしるしです。