ルカ16:19-31 2025/11/02 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
本日の福音のテーマは「逆転」です。
ラザリという物乞いがいました。全身をできもので覆われて犬がその膿をなめに来ても追い払うことすらできないほど弱り切っていました。彼は毎日贅沢に遊び暮らしているある金持ちの玄関先で一日中待っていました。金持ちが食卓から投げ落とすかもしれない残りものを待っていたのです。しかしとうとう、食べ残しは落ちては来ませんでした。金持ちとラザリはやがて相次いで死にます。
今度はこの金持ちが地獄で燃えさかる炎に焼かれ、悶え苦しみます。彼は天国を見上げ、そこにいたアブラハムに願いました。「そこにいるラザリに水で濡らした指先で彼の舌を冷やしてやれと、命じて下さい」と。しかしアブラハムはこう言います。
「私たちとあなたがたの間には、大きな淵があって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらから私たちの方へ越えてくることもできない」。
本日の福音では、たとえ互いの位置は後に逆転したものの、苦しみの内から助けを乞い願い待つ者と、「さいわい」の内から「わざわい」にあって苦しむ者を冷たく見下ろす者の対比が、鮮やかに示されます。しばしば、この金持ちは玄関先で苦しむラザリに少しも気づかなかったと言われますが、とんでもない。金持ちは哀れな物乞いの存在ばかりではなく、その名前さえ知っていたではないですか。彼は地獄から自分を見下ろすアウラアムに「ラザリをここへ遣わして下さい」と願ったんですよ。それだけになお、この金持ちの罪はより深刻で、その報いも重く、取り返しがつきません。金持ちの願いを叶えてやりたくとも、アブラハムとラザリの前には、もはや決して越えられない大きな淵が横たわっています。
金持ちとラザリの立場が入れ替わっただけのように見えますが、重大な違いがあります。生前の両者の間にあった「さいわい」と「わざわい」には大きな開きはありましたが、その開きは越えられないものではありませんでした。金持ちは、いつでもその気にさえなれば、ラザリに情けをかけて、温かい一皿のスープとパンを恵むことができたでしょう。まして、ラザリが期待していた、食べ残しを窓から投げ与えることなど造作もないことだったはずです。しかし、金持ちは知らんふりでした。その無慈悲が、彼の死後、彼自身を「わざわい」の側へ追いやったのです。しかし今度は、助けたくても越えられない大きな淵が両者の間に横たわっています。重大な違いです。
さて、説教をここで終えれば、それは道徳的勧告にすぎません。それどころか、無慈悲な人たちへの呪詛であり、まさに彼らに無慈悲に突きつけられた、福音とは名ばかりの復讐であり「脅し」であるかもしれません。
しかし、これはなお福音です。なぜならば、この金持ちを嘆かせた、この越えられぬ淵を渡って、こちら側へおいでになって下さったお方がいるからです。神と人、創造者とその被造物とのあいだにある途方もない隔たりを越えてこられた方がいるからです。そのお方がまさに、この「金持ちとラザリ」という説話の語り手であるからです。
そのお方、神の独り子イイススによって示された、神の愛を知らなければなりません。このお方は、私たちのために、私たちの罪以外の「わざわい」をすべて担われました。私たちの「わざわい」は私たち自身の罪の結果ですが、この方が受けた「わざわい」は愛の結果でした。神であるお方は、私たちを「わざわい」から「さいわい」へ移すために、死から生命へ移すためにに、ご自身の「さいわい」を捨て「わざわい」を担いました。神の栄光から出て死の支配のもとに入りました。
この方を知ってはじめて、無慈悲であった私たちは愛を知ります。
聖使徒イオアンが言います。
「私たちが愛し合うのは、神がまず私たちを愛して下さったからである」。