ルカ12:16-21 2025/11/21 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
大変な豊作に恵まれたある金持ちが、思案しました。
「どうしようか、このあり余る作物をしまっておく所がない」。
そして思いついたのは、倉を壊してもっと大きい倉を作ることでした。「これで安心。何年ものたくわえができた。これからはノンビリ人生を楽しめるぞ」。
このたとえ話は「愚かな金持ちのたとえ」と呼ばれてきました。このたとえ話にはオチがあり、ご満悦の金持ちに神さまが「愚か者め。おまえは今晩死ぬんだよ。おまえが苦心して準備したものはみんなパーになる」と言い渡します。
私たちはこのたとえ話を、貪欲に蓄財する人たちがどんなに愚かであるかを教える話として聞きます。でもホントにこの金持ちはそんなに愚かなんでしょうか。今晩死ぬかもしれないことを充分知っていたとしても、反対にあと何十年も生きる可能性も考え、たくさんの収穫を蓄えておこうと対処するのが、それほど愚かでしょうか。「俺は今晩死ぬかもしれない、それなら収穫を全部お金に換えて一晩で使い果たしてしまう。爽快でしょう。でもその後どうするつもりでしょう。もしこのたとえ話を聞いた人がみな、自分の生活に自分でしっかり責任を持って慎重に思いめぐらして生きることを止めたら、どうなるんでしょう。ホントに彼は愚かでしょうか?
彼が愚かなら、私たちもみな愚かです。私たちだって最悪の事態を考えて、少しでも安心して生きられるよう知恵を絞ります。うまくいっているかどうかは別です。幸いうまくゆき余裕を生み出せばお金持ち、不運であったり失敗すれば貧しい生活を余儀なくされます。でも自分自身のために一生懸命知恵を絞り努力している点では同じです。個々人だけでなく社会全体がそうしています。この世全体がこの世の知恵をせいいっぱい集めて何とかやりくりしているのです。
実は、本日のたとえ話はひとにぎりの金持ちをあげつらって、その愚かさを嘲るために語られたのではありません。まず、私たち人間がどのように生きているかを教えているのです。人類は自分自身の知恵と力を一生懸命振り絞って生きてきました。より豊かに、より安全に生きるために、物質を刻みきれないギリギリの所まで刻み続け、宇宙の果てを見通せないギリギリの所まで見通し、その限界をどんどん押し広げました。その結果、人類を何千回も滅ぼせるほどの途方もない力を取り出しました。「脳死」という死を「死んだ」人から、まだ温かく脈打つ心臓をいただいて、不治の病の人たちを救うことができるようになりました。
このような生き方こそ、アダムとエヴァがエデンの園で「善悪を知る木の実」をつまみ食いした時に始まったものでした。その時以来人は、必要なものは必要なだけいつも神さまが配慮して下さる生活を捨て、神さまへ「ノー、サンキュー」と、その愛を辞退し続けてきたのです。
でも、なかなか健闘しているではないですか。平均寿命は延びました。貧困は少しずつですが、なくなりつつあります。それでも人は愚かなのでしょうか。
そうです。私ではなく主イイススが、愚かだと言うのです。そんな生き方は悲しいと言うのです。…神さまの愛を知らないから、ほんとうの喜び、ほんとうの平安を知らないからです。そしてイイススはその愚かさ、悲しさ、惨めさから私たち人を再び神さまの愛の配慮の内に生かすため、十字架にご自身を献げました。
いま私たちは聖体礼儀に集っています。やがて、教会は主が十字架へご自身を献げられた、あのたった一度の場へ聖神(聖霊)の翼に乗って立ち戻ります。ハリストスが御自身を十字架に献げられたことを記憶する大聖入です。その献げものを見守る私たちは「この世の慮りを悉くしりぞくべし」と歌います。あらゆる人間的な慮りを捨てて、神の配慮の内に私たち・教会が自らを投げ出す時、そこで浴びる光、そこで私たちをつつみこむ暖かさ、そしてご聖体の味わいによって私たちは、「愚かな金持ち」と同じ自分たちの愚かさに気づき、再出発へ踏み出します。至聖三者の神への信頼を心にしっかり抱いて。