マトフェイ9:1-8 2025/7/20 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
イイススのもとに、病気で寝たきりの一人の男が、家族や友人たちに担ぎ込まれました。病人にイイススは告げました。「元気を出しなさい。あなたの罪は赦された」。そして命じました。「起きなさい、床を取って家に帰りなさい」。
彼はたちどころに癒され、帰って行きました。
めでたいお話です。しかしもし私たちが、「元気を出せ」と告げられた、この寝たきりの病人を自分自身に重ね合わせなければ、このめでたいお話は、私たちに何の喜びも希望も与えません。
この病人そして私たちは、なぜ元気がなく寝たきりなのでしょう。病気のせいでしょうか。いいえ、病気でも元気な人はいます。身体は立ち上がれなくても心はしっかりと立っている人はいます。私たちが元気がなく、立ち上がれないなら、それは私たち自身の問題です。自分を赦せないからです。自分自身による自分への裁きから、自分を解き放てないのです。それを見抜いたからこそ、主は「あなたの罪は赦された」と告げたのです。
ところでこの、自分自身の自分への裁きはその大半は、幼い時から今日まで繰り返された外側からの裁きが、いつしか自分の内側に取り込まれてしまったものです。親は子供を叱ります。あんたはだらしがない。あんたは弱虫だ。あんたはわがままだ。あんたはうそつきだ。あんたは乱暴だ…。やがて学校や社会もおおいかぶさってきます。君は劣等生だ。君は問題児だ。君は変わり者だ…。これらの裁きの積み重ねがついに、それらのむごい裁きをはね返す力を奪い、ついに自分自身による自分への裁きに内面化されてしまったのです。
担ぎ込まれた病人に「あなたの罪は赦された」と宣告した主を見て、「神以外に罪を赦す権威はないのに、これは神への冒涜だ」と律法学者たちはつぶやきました。赦す権威は裁く権威と表裏一体です。彼ら律法学者の姿が象徴するのは、人を裁く権威は神にしかないことを誰にもましてよく知っているにもかかわらず、無力な子供を、ひ弱な若者たちを、臆病なほどマジメな人たちを、胸を張って裁き続ける大人や、学校や、社会や、時には私たち「聖職者」です。
私たちは裁く権威など持たない者たちから裁かれ続けた結果、その裁きを「自分の自分への裁き」としてしまい、ついに「自分が自分を赦せないんだから、だれの愛も、だれの励ましも、だれの赦しも、自分を『元気にし、立ち上がらせることなどできっこない』…と決めつけてしまっているのです。実はこのとき私たちは、人を裁く権威など持っていないのに人を裁き続ける者たち、…自分を苦しめている当の者たちと同じ者になってしまっているのです。自分を裁くことで。
ハリストスは「悔い改めよ」と告げました。しかしそれは「自己処罰」を強い、罪の自覚とは似て非なる自己憐憫で私たちの「元気」を奪うためではありません。そうではなく、私たちにまさに、…御自身を主として迎え入れる生活として「神の国」が差し出されていることを伝え、私たちの内に希望を回復し、私たちがこれまでの自己処罰と自己憐憫から自らをきっぱりと解き放ち、いま御自身が差し出す「新しいいのち」に飛び込んでゆく勇気を与え、まことの喜びを、まことの「元気」を与えるためでした。
ただお一方、人を裁く権威を持つお方・神が人となったハリストスが、ゆがんだ「罪の意識」に押しつぶされ、ついにほんとうに病気になってしまったこの人に向かって言いました。
「私の持っている罪を赦す権威を信じなさい。そして、私の赦しを受けとって、あなた自身を解き放ちなさい。さあ、元気になって歩きだしなさい」。
主は十字架で苦しみと死を受けました。裁く権威を持つただお一人のお方が裁かず、反対に裁かれる姿を世に示しました。そのとき私たちを苦しめてきた諸々の「裁き」が裁かれ、私たちは解き放たれました。主の十字架から「いのち」が私たちにもう一度そそぎ出されました。
聖使徒イオアンはこれを、まっすぐに告げて言います。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない」(イオアン3:16-18)。