マトフェイ6:14-21 2025/03/02 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
現代文明は、日常生活の様々な「めんどうなこと」から、私たちを解放しました。その大半は、人と関わってしかできなかったことでした。駅の切符売り場や改札口から人の姿は完全に消えました。スーパーやコンビニのレジからもやがて人は消えるでしょう。そういえば、私が子供だったころ夕食の支度を始めた母からよく、「お隣り行って、お味噌借りてきて」と頼まれました。それこそ「めんどうだなあ」と渋々立ち上がったものです。貧乏で味噌が買えなかったわけではない、コンビニなどなかったからです。
そういう様々な「めんどう」から解放されて、私たちは「コンビニエンスで快適な」生活を送っています。しかし人と関わらねばならないことを「めんどう」と感じるそこには、人と関わらずに生きるのが一番快適だ、一番いい、という思いが隠れています。人と関わればやがて、必ずと言ってよいほど、「めんどう」が生じます。「めんどう」がやがて気持ちのすれ違いや、争いへと発展し、憎しみが生まれます。人に憎しみを持つのはとてもつらく苦しいことです。憎しみまでゆかなくても「キライ」という感情でさえかなり「しんどい」ものです。
四世紀の聖師父、聖大ワシリイは弟子たちに言いました。
「神は、私たちが互いに結びつくように、互いの助けあいが不可欠な者として、人を創造した。…隠遁生活の最大の危険は自己満足の危険だ。そこには彼の行動を評価できる人がいないから、彼はうかつにも自分が神の命令を完全に成し遂げたと思い込む。第二は、彼は自分の魂の状態を試す対人関係の試練がないから、自分の欠点に気づかない、彼には愛の戒めを実行する機会が奪われている。…彼はだれに謙遜を示すのか。どこで憐れみの心を示すのか。どうやって寛大になるのか。…考えてもみよ。主は…謙遜の模範を私たちに与えようと、腰に帯を巻き、弟子たちの足を洗った。では一人での修行を志すなら、君は誰の足を洗うのか、誰に仕えるのか…」。
さて、本日の福音は「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父もあなたがたをゆるしてくださるであろう」と互いが「赦しあう」大切さを教えます。
しかし、「ゆるす」ことを大切な愛の課題として引き受ける前に、私たちはまず自分に問わなければなりません。「自分はスマホの中の『隠遁生活』に閉じこもっていやしないか」「その孤独の中で『めんどうくさい』一切から引きこもって、自分だけの天国に逃げ込んでしまっていないか」「ゆるすこともゆるされることも、そんなめんどくさいことを抱え込まないように、できるだけ人との関わりを持たずに生きていこうとしていないか」、そう問わなければなりません。
大斎という心と身体の旅の目的地は復活祭です。復活祭はパスハと呼ばれます。「過ぎ越し」です。神の国への過ぎ越しの祝いです。その過ぎ越しは、ハリストスがその十字架と復活で開いた道を通ってゆく「私」から、「私たち」への過ぎ越しです。旅の出発点は悲しみです。神が「人が一人でいるのはよくない」と贈ってくれた「私たち」という人のあり方から、自分だけの「平安」をびくびく守ることへと離れ落ちてしまった「私」への痛切な悲しみです。そしてその悲しみに促されて、「私」から「私たち」へと方向転換しなければなりません。私たちは「私たち」であることが苦手です。「私たち」であることに怯えています。しかし「めんどくさい」と言って、この方向転換から逆戻りしてはなりません。もし葛藤を恐れて、人との関わりから自らを閉ざすなら、それが心に波風が少しも立たない「平安」なものであっても、ご自身の三位一体の愛のかたちに人を創ってくれた神をどれほど悲しませるかに、いち早く気づかなければなりません。
その道へと出て行ったとき、私たちははじめて、何よりまず、「ゆるし」としてこの地上に来られた神・ハリストスに出会います。その「ゆるし」と愛の中で、今度は自分自身が「ゆるす」者へと変えられて、ついに「よみがえり」としてハリストスを知ることとなります。「ハリストス復活!」「実に復活!」と正教徒は復活祭に挨拶を交わし合います。これこそ、私たちがまさに「私たち」へと変えられたことへの、互いの確かめあいなのです。旅の終わり、五十日後、輝かしいパスハの夜、はればれと「ハリストス復活!」と呼び交わし合いましょう。