マトフェイ25:31-46 2025/02/23 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
福音には「小さな者」という言葉が何度か出てきます。人間の内、最も小さな者は生まれたばかりの赤ちゃんです。体が小さいだけでなく、まったく無力です。母親の愛の支えがなければ一時として生きられません。「小さな者」はこの赤ちゃんのように「愛の支えがなければ生きられない人々」です。
ところで生神女のイコンはほとんどが幼な子イイススを胸に抱いています。イイススはお母さんの愛に支えられなければ生きられない無力な赤ちゃんとしてこの世においでになったのです。まさに「小さな者」としてこの世に来られました。
そしてこのお方は最後には着物をむしり取られ、無惨に十字架に磔けられ、民衆に罵倒嘲笑され、しかも弟子たちに逃げ去られ、ついには「神よ、あなたはどうして…」と叫んだように、神にすら見捨てられた「愛の支えをすべて失った『小さな者』」としてこの世の生命を終えます。「小さな者」として来て「小さな者」として去った、この「小さな者」が私たちクリスチャンの主です。
このお方がよみがえりました。三日目の日曜の朝、葬られた墓は空っぽでした。弟子たちに天使が告げました。「どうして生きている者を墓に探すのだ。主は復活してここにはいない」。やがて主は弟子たちのもとに出現します。死という、私たち人を例外なくそこに閉じこめているくびきが打ち破られ、私たちに「いのち」が回復しました。イイススというこの「小さな者」は私たちへの「いのちの贈り物」でした。主は「受けとられた贈り物」としてマリアに抱かれたのです。マリアは私たちです。
私たちは「小さな者」たちに出会います。泣き叫ぶ赤ちゃんとして、ベッドに横たわる人たちとして、社会からうち捨てられた人たちとして、心を病み孤独に閉じこもる人たちとして、年老いて自分では何もできない人たちとして。絶望の内に死を見つめている人たちとして。彼らもまた「愛に支えられなければ生きられない」ということで、私たちへの贈り物、イイススと同じ「小さな者」です。
そうであるなら、この人たちとの関わりの中ではじめて、私たちは「いのち」を贈られるのではないでしょうか。この人たちを生神女がイイススを受け取ったように、いのちの贈り物として受け取ってはじめて、いったんは捨てられたけれど三日目に「いのち」の土台の石としてよみがえったハリストス、その「いのち」に生きることになるのではないでしょうか。
ハリストスはこう教えました。今日の福音です。人の子、すなわちハリストスは再び天使たちを従えてこの世においでになり、王として、すべての人々を羊と山羊をわける羊飼いのように右左にわけて、右の者たちに申し渡します。「祝福された人たちよ、御国を受け継ぎなさい。あなたたちは、わたしが空腹の時に食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気の時に見舞い、獄にいたときに尋ねてくれた」。
驚いて「いつそんなことをしましたか」と尋ねる人々に、王はこう言います。
「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さな者の一人にしたのは、すなわちわたしにしたのである」。
「小さな者」たちは、私たちへの贈り物です。イイススがそうであるように御国を継ぐ、すなわちハリストスの復活のいのちに生きる喜びへの道として、神から贈られた聖なる贈り物です。
では「小さな者」、私たちにとって最も身近な小さな者とは、誰でしょう。「隣人たち」です。もちろん家族も含めて、日々じかに出会う人々です。その中には嫌いな人もいます。しかし今を生きる世界中の人々の中で、何万年という人類の歴史の中で、生きた、生きる、さらに未来に生きるだろう、途方もない数の人たちの内で、なんと顔と顔を合わせてじかに出会っている人たちです。奇蹟ではありませんか。まさに神の贈り物ではありませんか。その隣人たちとの間で、お互いを神から贈られた「小さな者」として、お互いを愛によって支えられなければ片時も生きられない者として知り、互いに互いを贈り合って生きること、そこから「神の国」が育ち始めるのではないでしょうか。