マルコ2:1-12 2025/3/16大阪教会
父と子と聖神の名によりて
今日の福音を振り返ってみて下さい。中風で身動きできない人が癒しを求めて目の前に横たわっているのに、居合わせた律法学者たちの思うところは、「事の是非」でした。それが正しいか間違っているかです。
イイススが中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と告げたのに対し、彼らは「なんてことを言う人だ。神のほかに誰が罪を赦せるだろうか」と心につぶやいたのです。そういえば、手の萎えた人、長い間かがんだままで体がまっすぐに伸ばせない人を主が安息日に癒した時にも、律法学者やファリサイ人は、まず「安息日に人を癒すことは許されるのか」と「事の是非」を論じましたね。
イイススにとっては「事の是非」など二の次でした。主はご自身の前に横たわる中風の人、また手を伸ばせない、体を伸ばせない人、その人たちの辛さ苦しさにまず、寄り添いました。苦しむ人と一つになりました。イイススは「ハリストス」救い主と呼ばれるお方です。しかしイイススを呼ぶもう一つの名を忘れてはなりません。救い主がやがて到来することを預言して、イサイヤはこう預言しました。「おとめが身ごもって男の子を産むであろう。その名はエンマヌイルとよばれるだろう」。「エンマヌイル」、神は我らと共にいます、という意味です。そのお方は我らと共にいつもいて下さいます。そして、そのお方は神です。イイスス・ハリストス、エンマヌイルは「人となった神」としてすべての人々と共にいます。しかしそれは、革命家や社会運動家たちが「人民の、弱者の苦しみのために!」とこぶしを振り上げるのとは違います。彼らは「人民」や「弱者」には関心があっても、「この私」には関心がありません。自分たちの主義主張の実現に役立つ時だけ「ここで苦しむこの人を見よ」と利用するだけです。宗教の熱心な伝道者たちだって同じかもしれません。
しかしハリストスは一切を創造し、すべての者に愛を注ぐ神として「この私」を、この私自身が知っているよりはるかによく、ご存じです。この私の辛さを、この私の苦しみを、この私の悩みを、私自身よりずっと痛切に、重く、私の心の一番深いところからご存じです。心だけではない、病気やケガによる身が引き裂かれるような痛さだってご存じです。太い釘で十字架に磔になったお方です。身も心もあげて、そのいのちの全体で人の苦しみを分かち合い、人はもう悲しみ疲れて呆けてしまってもなお、ご自分は人というものの悲しみを、そしてこの「私の悲しみ」を、ご自身の悲しみとして神にまっすぐに訴え続けているお方です。そのようなお方に、ほかでもない「この私」が分かち合われていること、その悩み苦しみ辛さを丸ごとに分かち合われていること、それを知ったとき、私たちの癒しが始まります。
主は中風の人に「あなたの罪は赦された」と告げて彼を癒しました。ここで言われる「罪」を人間的な罪科や、神への背きとだけ捉えてはなりません。この神から与えられた「いのち」(生活)を、自分に襲いかかり、自分を押しつぶしてしまう辛さとしてしか、苦しみとしてしか生きられなくなっている、私たちのその姿そのものが罪です。私たちをそんな風にしか生きられないようにしてしまった、人が自ら招き寄せてしまった「状況」そのものが罪です。主は「あなたの罪は赦された」と、この人が落ちている奈落ともいうべき「状況」から「あなたは救い出された、解き放たれた」と告げたのです。
「あなたの罪は赦された」と告げること、これは律法学者たちのつぶやき通り、神にしかできないことです。私たちにはできません。私たちは無力です。
しかしそれでもなお、私たちにもできることがあります。
中風の人を戸板にのせて、イイススが人々にお話ししていた家までワッショイワッショイ担いではきたけれど、おおぜいの人で中には入れないとみるや、屋根によじのぼり、天井板を引っぺがし、そこから中風の人をイイススの前に吊り下ろした人々、彼らがしたのは、苦しんでいる人を、「オレたちにはできないが、このお方にはできると信じ仰いでいるイイススのもとに連れてくることでした。それなら人にもできるのです。その時、この中風の人も、彼を憐れんで主イイススのもとに連れてきた人々もまるごと、ひとりぼっちの「わたし」から「わたしたち」へと、そう「教会」へと結ばれたのです。神の救いがこの教会という交わりに、現実として見えるものとなったのです。古代教会の有名な「合いことば」通り、まさに「教会の外に救いはない」のです。個人主義的な「信仰義化」の確信」はそれ自体では、決して救いではあり得ません。
「教会に来てみませんか」、一度でもいいから、心がかりな「あの人に」声をかけてみませんか。