2026年2月1日 ・ ルカ18:10-14
大阪教会
父と子と聖神の名によりて
謙遜であることを「威張らず、出しゃばらず、慎み深く、まず人の話に耳を傾ける…」など、人との関わりの中で求められる「徳」と考える方が多いようです。ある国語辞書は「自分を低い者として、相手に対して控えめな態度を取ること」(『新明解』)と説明しています。しかし「謙遜」とは「この程度のこと」でしょうか。
謙遜は本気でクリスチヤンたらんと志すなら、まず最初に求められる心のあり方です。だからこそ復活祭へと心身を備える「大斎」に先だつ「大斎準備週間」の最初の主日に読まれる福音は、自分の正しさに胸を張って「自分を高くする」ファリサイ人ではなく、ただ胸を打って祈るばかりの「自分を低くする」税吏こそが神に祝福され「高くされた」という、主の教えなのです(ルカ18:9-14)。
その祈りとは、こうでした。
「神さま、罪人のわたしをあわれんでください」
これほど教会が強調する謙遜が「この程度のこと」、…腰低く、出しゃばらず、慎み深いといった程度のことなのでしょうか。クリスチャンでなくとも、そんな「徳」を備えた人たちはこの世にはたくさんいます。
「徳」の問題ではないのです。
正教信徒に最も親しみ深い聖詠の一つはこう詠います。
痛悔して謙遜なる心は、
神や爾(なんじ)軽んじ給はず」
(第五十聖詠)
ここで「痛悔して」と訳されている語の原義は「砕かれた」です。砕かれた結果としての「謙遜」が、行儀のいい美徳などであるはずがありません。
そして忘れてはならないのが、「痛悔して謙遜なる心」こそ神への最高の捧げ物、「神に喜ばれる祭り」だということです。謙遜は「人との関わりの中で求められる徳」などではなく、「神との関わり」の中で求められる心のあり方です。
堅い「心のよろい」が粉々に砕かれ、神の前にありのままの自分を投げ出しきった時、神の喜びが私たちの心に流れ込み、その喜びが「神さま、わたしを憐れんでください」という「わたしの」祈りとして溢れこぼれるのです。
痛悔も謙遜も、神を恐れてふるえ上がることではありません。まして苦い屈辱などであろうはずがありません。
正教が人の生きる目的と信じる、神との愛の交わりへの入り口であり、またゴールです。砕かれるたびごとに、今まで知らなかった神の喜びの、そしてわたしの祈りの扉がはてしなく開かれ続けてゆくのです。