マルコ8:34-9:1 2025/3/23 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。
本日の福音です。ハリストスのまことに厳しい言葉です。逃げ道はどこにもありません。キリスト教を「ためになる」教えぐらいにしか考えていなかった者を張り倒す、容赦ない言葉です。
しかしローマ帝国や共産主義者たちの迫害にさらされていた時代、クリスチャンたちはこの言葉に、私たちが今感じている「容赦なさ」をはるかに凌ぐ「容赦なさ」を感じたはずです。彼らにとって「十字架を負って」とは、文字通り十字架に磔になることでした。「自分を捨て」とは「我」を捨てるといった修道的な徳目ではなく、ハリストスのために、福音のために「死」を受け入れることでした。殺される者は生き、死を拒んで生きながらえる者は死ぬ、この逃げ場のない二者択一に彼らはいつも直面していました。クリスチャンとして生きるのか、すなわち死を辞さないのか、あるいはハリストスを捨てて死ぬのか、すなわち生きながらえるのか、です。
今日、「十字架を負って」は人生の課題から目を背けず、逃げることなくその重荷を背負って生き抜くこと、そう理解されることが多いようです。決して間違ってはいません。しかしそれが、迫害時代のクリスチャンの体験と本質的に同じ体験であること、すなわち自分の「生き死に」にかかわっていることがわかってないなら、「人生は重荷を背負って坂道を行くがごとし」といった「日めくり」の金言とかわりません。私たちは人生の奥深い味わいにしみじみ頷くために主の言葉を聞きたいのではありません。死にたくないからです。生きたいからです。主も気の利いたことを言って私たちを恐れ入らせようなんて思ってもいません。「私についてきたいと思うなら」…そう「死にたくないなら俺についてこい!」と、戦場で兵士を叱咤する大将のように呼ばわっているのです。「わかりました。ついて行きます」と心からそれに答えるなら、次に「しかし、どのようにして、ついて行けばよいのでしょう?」と間髪を入れず問うはずです。そうでないなら、「ついて行きます」という答えは口先だけのものにすぎません。
ここで、はじめて「自分を捨てて、自分の十字架を背負って」という言葉が意味を持ってくるのです。
「自分を捨てて」。自分の欲望や感情のままに生きてきて、何か実りがあったでしょうか。自分のために道具にしてきた人たちの憎しみが襲いかかり、道具にしてきたこの肉体が復讐しています。自分の信念や「自分なりの考え」で生きてきて、何か道を見いだしたでしょうか。自分を評価しない、自分に同意しない社会や人々への恨みにとらえられ、誰にも心を開かない、誰からも心を開いてもらえない孤独な自分が残っただけです。死にたくないなら「自分が」「自分は」「自分にとって」…などという、そんな重たい鎧は早く脱いで私を信じてついてきなさい、ハリストスはそう叫んでいます。「自分」というものほど重たい荷物はありません。主が「心貧しくあれ」と言えば自分の無力を潔く認め、「野の花を見よ」と言えば思い煩らいを捨て、「姦淫するな」と言えば夫婦の絆に立ち帰り、「敵を愛し赦せ」と言えば憎い人のために祈り、「人を裁くな」と言えば自分の罪をまず心に刻むのです…。「とって食べよ、とって飲め」と言われたなら、古き生命を洗礼の水に捨てた私たちの新しい生命、主のお体と血を受けるのです。
「自分の十字架を負って」。十字架は求めて与えられるものではなく、そこにおかれているものです。私たちは目の前の十字架が見えないふりをして、お気に入りの十字架、軽そうな十字架、カッコイイ十字架をきょろきょろ探しています。そんな十字架では私たちはちゃんと死ねません。真の生命によみがえれません。もし「自分の十字架」が見えないなら、自分が目を背けて生きてきたものに正直に向かい合いましょう。背負いたくない十字架こそが「自分の十字架」です。そして「ついて来い」と前を歩く主ばかりでなく、重い十字架をいっしょに背負ってくれる主の力添えをためらわずに受け取るなら、私たちは十字架で死んだ主と共に、よみがえりの生命に向けて歩み出します。