2025/06/08 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
旧約聖書が伝えるモーゼの十戒は、すべて「してはいけない」という禁止の戒めです。「あなたはわたしの他に何者をも神としてはならない」、「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」。ユダヤ人たちはこの十戒をもとに、膨大な数の禁止命令で生活を覆い尽くす「律法」のもとで生きてきました。この「十戒」を神から受けたことを記念する祭りがユダヤ人たちの「ペンテコステ」(五旬祭)でした。エジプト脱出を記憶する「過越し祭り」(パスハ)からちょうど五十日目にあたります。
まさに、このペンテコステの日に、ハリストスの弟子たちは聖神を受けました。これは、ハリストスが「過越しの祭り」(パスハ)の時に、十字架の死と復活によって、人の救いを完成したことに対応しています。主は、復活の四十日後、天にあげられるに際し、「あなたたちのために神・父に願って聖神(聖霊)を遣わしていただく」と約束しました。そして、主はやがて、その聖神が弟子たちと主を愛して集まってきた人々に、ご自分が成し遂げたことの真の意味を悟らせ、それを信じる者たちが互いに一致する力を与え、彼らの共同体を「新たなる神の民」へと創りかえてくれると告げました。この約束が、ペンテコステの日に彼らが「一緒に集まっているとき」成就したのです。
預言者エレミヤはかつて次のように神のことばを告げました。
「見よ。新しい契約を立てる日が来る。この契約は、わたしが彼らの先祖をエジプトの地から導き出したときに立てたようなものではない。・・・わたしはわたしの律法を彼らの心にしるす」(エレミヤ31:31-33)
石に文字として刻みつけられた律法、人間を外側から「してはならない」という禁止のことばで規制する律法のかわりに、神はやがて「心にしるされた」神のことば、内側から人を改め創り内側から人を導く神の霊を与える、約束です。
律法は「禁止」です。違反と罰への恐れ、律法を守れない罪悪感で人間を押しつぶします。パウェルは律法をさして「文字は人を殺す」と言います。この禁止の命令は、私たちの「いのち」に豊かな、新しい内容を与えることはできません。あれするな、これするなと言われたら、ただ前例に盲目的に従う生活の中に縮こまっているしかありません。神が与えた十戒・律法がそれ自体としては悪いものであろうはずはありません。ただそれが外側から人間を拘束するものにとどまる限り、私たちは律法に「殺されてしまう」ということです。
私たちに身近な言葉で言いかえましょう。私たちの生活を外側から規制するもの、社会倫理や道徳、法律、伝統、また男たるもの、女たる者…、夫とは…、妻とは…、嫁とは…、といった社会通念、そういうものから自由になって、その本来持っていた意味や大切さを内側から心に捉え直さない限り、私たちはやがて窒息してしまいます。神が人に贈って下さった、とほうもない可能性が、生かされることなく朽ちてしまいます。教会の教えだって福音、すなわち喜びと自由の宣言としてでなく、倫理や道徳として教えられたら、同じ結果になります。私たちが、そのような囚われから自由になってはじめて神との心躍る交わりに生き始められます。
聖神はこの自由を与えてくれます。クリスチャンのとらわれなさ、クリスチャンのしなやかさ、クリスチャンの生気、すべて聖神の贈り物(賜物)です。私たちが、神ではないものにとらわれ、がんじがらめにされてしまっていることを心から嘆き、教会の愛の交わりの中で「主よ憐れんでください」と本気で祈るなら、聖神は、私たちを想像もしなかった自由へと解放してくれます。それは、どんな苦しみや試練の内でも失われることのない自由です。それはあらゆるこだわりや、憎しみ、おびえから解き放ってくれます。この自由に私たちは招かれているのです