イオアン17:1-13 2025/06/01 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
私たちクリスチャンは欲が深い、つくづくそう思います。
ささやかな幸せでは満足しません。満足するなら日曜に教会などへ来ません。家族打ちそろい公園にでも行くでしょう。
香り高い文化や芸術に触れることでも満足しません。満足するなら、やはり日曜日に教会などへ来ません。展覧会やコンサートへ行って眼や耳を肥やします。
さらに平和や社会正義の実現などというよう立派な理念でも満足しません。満足するなら日曜日に教会などへ来ません。署名運動に走り回ったり、デモ行進に参加しに行くでしょう。
クリスチャンはそんなものには目もくれず「『永遠のいのち』が欲しい」と望むのです。これは実は「望む」なんてお行儀の良い言葉で言い表せるようなものではありません。この世が差し出す様々な幸せや価値を「これは違う」と、聖使徒パウェルの言葉によると「ふん土」のように捨て去って「永遠のいのち」をひたすら望みます。
では「永遠のいのち」って何でしょう。いつまでも死なない生命でしょうか。とんでもない、老いさらばえてなお永久に生きる、そんなことクリスチャンならずとも望む人はいません。では不老不死ならどうでしょう。医学はいずれ不老不死を達成するかもしれません。しかし仮にそんなバラ色の未来が実現されたとしても、人が渇き求め続け、あらゆる人の営みがそれへの飢えをいやすための「さすらい」であるような、人が手を伸ばし続けてやまない「何ものか」が残ります。その何ものかを福音は、人間の言葉の限界の内で、かろうじて「永遠のいのち」と呼んでいるにすぎません。
ハリストスご自身が神にこう祈りました。
「永遠のいのちとは、唯一のまことの神でいますあなたと、また、あなたが遣わしたイイスス・ハリストスを知ることであります」。
「永遠のいのち」としか呼びようのないものへのいやしがたいや望みが私たちの心のもっとも深い場所でうずいてやまないこと、これがまさに、「唯一のまことの神」、そう呼ぶほかないお方が、確かにいらっしゃること、永遠の生命が幻ではないことを示しています。そしてこのイイススの祈りは同時に、この目に見えない、私たち人間の知識では捉えることのできない「唯一の真の神」へのあこがれを満たしてくれるのが、他でもない「イイスス・ハリストスご自身を知ること」だと宣言しているのです。なぜなら、イイススはその唯一の真の神にむかって「わたしはあなたからでたもの」、「わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのもの」、そう祈っているではないですか。
しかしイイススを知ることとは、決してイイススについて聖書が伝えている内容を知識として知ることではありません。聖書で「知る」はつねに体験です。
イイススの愛を体験することとは、教会の祈りの生活を生きることとも言い換えられます。とりわけ主がご自身の愛の証しとして十字架の苦難の内から差し出された、そして今もこの礼拝の内にさし出し続ける、ご自身のお体と血を分かち合うことです。その分かち合いの内で、私たちは神がまことに愛であることを知り、ハリストスが十字架の死によってその神の愛に光栄を帰し、私たちはその愛によって赦され、永遠のいのちへの道へとさし向けられていることを知るのです。それを、知性にではなく、心と体に刻みこまれた「知識」、そこに溢れる喜びとして知るのです。この知識が私たちに、この世の知恵、この世の知識の限界を突破する、この世的な欲望の束縛を破る、ほんとうの自由を与え、その自由を真の感謝で満たします。逆に、このほんとうの感謝が私たちに真の自由を与え、真の知識を与えてくれます。聖体礼儀はユーカリスト・感謝と呼ばれます。
私たちの務めは、そこで味わう感謝の喜びを私たちの生活の現場に、私たちの隣人のもとへ持って行くことです。「平安にして出ずべし」と言う呼びかけは、その務めへの呼びかけです。
この喜びをどんな苦難のうちにあっても、どんな悲しみのうちにあっても喜び抜いた聖使徒パウェルの、勝ち誇った叫びにもう一度耳を傾けましょう。
「わたしは、わたしの主ハリストス・イイススを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。ハリストスのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、屑や芥のように思っている」。(フィリップ3:8)