イオアン9:1-38 2025/05/25 大阪教会
ハリストス復活!
ある日、イイススとお弟子たちは、生まれつきの盲人に出会いました。弟子たちは主に尋ねました。
「先生、この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
主は「本人でも、両親でもない。ただ、神のみわざが彼の上に現れるためだ」と言い、唾で泥をこね彼の目に塗り、池で洗えと命じました。言われたとおりにすると、彼は光を取り戻しました。
「神のみわざが現れるため」。この言葉が「生まれつきの障害は神のご意志の現れ」と解釈され、ハリストスの御言葉に最後の希望をかけていた人に、神のみわざが現れるどころか、打ちのめしてしまうことだってあるのです。
イイススの御言葉は、目の前にいる人々に、それぞれの人々がおかれている具体的な状況を踏まえて語られたものが多く、それをどんな場合にも通じる普遍的な教訓や金科玉条にしてしまうことには慎重でなければなりません。特に本日の福音は注意を要します。
私たちはハリストスがすぐにこの男を癒したことを忘れてはなりません。主はこの男を癒してあげることを前提に「神のみわざが現れるため」と答えたのです。先天的障害を「神のみ旨だから、受け入れなさい」と諭したのではありません。
自分の意志や努力とは関わりなく私たちを襲う、避けられない苦難があります。これは不条理としか言いようがありません。何十年も危険を知りながらタバコを吸い続けた人が病気になるなら当然の報いですが、何の罪もありようのない赤ちゃんの目が、生まれつき見えないなんていうことに、筋の通った説明などできません。医学的な説明ならいくらでもできます。しかし「なぜこの子が」「なぜ私が」という切実な叫びに答えられる人も、説明できる理屈もありません。
主の「神のみわざが現れるため」という言葉は、弟子たちの問いに答えたものであることを忘れてはなりません。その問いは「この人が生まれつき盲目なのは、本人でないなら誰が罪を犯したからですか」という問いでした。古今東西人の心に深く根を張る「因果応報」の考え、人の苦しみは神や仏が人の行いに応じて与える罰や報いだという考えに対して、「そうじゃない。神は人を苦しめることなど、これっぽっちもお望みにならない。むしろ、その苦しみから人を解き放とうとされているんだ」と、そのお答えによって断言したのです。そして直ちにその目を開いて、その言葉を証ししました。
ですから「神のみわざが現れるため」、これは決して説明でも神学でもありません。むしろ、いつも人とともにされる神・ハリストスの悲しみと、愛のあふれです。決して「生まれつきの盲目」という一つの不条理を解き明かしてみせて、そのうえ現実に癒しの奇跡を見せつけて、「どうだ、おそれいったか」と誇示したかったのではありません。何の罪もないのに、誰の罪の結果でもないのに生まれつき盲目であるという不条理の前に、私たちと同じ人間として、立ちつくされたのです。そしてその悲しみを、いや、もしかしたら怒りを、私たちと分かち合われたのです。しかし、主は私たちを悲しみの内に置きざりにはなさいませんでした。主は神として、やがてご自身が成し遂げられる救いの約束の証として、ただちに、この盲人の目を開きました。「神のみわざが今あなたに現れる」と力強く告げつつ。
主の十字架の死と復活はこの約束の成就です。神ご自身が、神であるのに死なねばならないという最大の不条理に悲痛な叫びをあげました。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。人間の背負う不条理がその時、完全に神に分かち合われました。そして主の三日目の復活は、混乱と絶望に私たちを突き落とす不条理を、よみがえりへの希望と喜びへの結び目へと、変えました。
ハリストス復活!