マトフェイ4:18-23 2025/06/22 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
「わたしについてきなさい。人間を取る漁師にしてあげよう」。
イイススにそう呼び掛けられたガリラヤ湖の漁師たちはただちに網を捨てて主に従いました。しかし捨てたのは網だけだったでしょうか…。
ガリラヤの漁師たちが「網」と共に捨てたのは「平安」でした。
彼らは住み慣れた家を出、主イイススと共に町々村々を巡り歩きました。
そしてそこで聞く主の教えに彼らはふるえ上がりました。
人を嘲っただけで地獄に入れられるだろう、みだらな心で女を見たなら目をえぐり出せ、右の頬を打たれたら左の頬も出し、敵を愛し敵のために祈れ、そして「完全な者」となれと命じられました。財布も、着がえも、つえも持つな、行く先々で迎えてくれる人たちの世話になれ、そして「神の国」の福音を伝えよと送り出されました。またある時は、神殿で商売する人たちに怒り、彼らを蹴散らすイイススに息の詰まる思いで立ちつくしました。ある時は、お互いの中で誰が一番偉いかを論じていたら、火を吐くような叱責を浴びせられました。そしてついに、あの金曜日、恐怖にかられ、十字架に主を一人置き去りにした自らの臆病さに号泣しました。息絶えた主の埋葬にすら手を貸せなかった自分たちの弱さ卑怯さに文字通りぼろぼろに砕かれました。
しかも三日後に復活した主との出会いは、この嵐のような日々の終わりを意味しませんでした。聖神降臨の朝、聖神を受けて、全世界に主の復活を告げるために散っていった彼らの旅は困難に満ちた、文字通り主と共に十字架を背負う旅でした。「平安」とは無縁でした。彼らの大半は、むごたらしく殺されたのです。
私たちクリスチャンも皆、平安を捨てました。悪口を言われたり、られたり、られたり、・・・そんな時、胸の内で、あるいは酒場で、「あの馬鹿野郎!」と毒づいてやっと「平安」を取り戻す、そんな平安は捨てました。そんな生き方は、ハリストスへの信仰によって生きると、決めたとき、私たちは捨てました。
では捨てて、心の安らぎが戻ってきたでしょうか。
とんでもない。何度でも赦せ、敵を愛せというハリストスの愛の戒めを守ろうと、力めば力むほどかえって憎しみの熱で身も心も焼き切れてしまいそうになる、そのあげくに罪深い自分ばかりが見えてくる…、この地獄の火にあぶられるような苦しみを「引き受け」なければなりません。何度罪に倒れても、主の赦しと導きを、聖神の恵みを、信じてくりかえし立ち上がる、この姿を通じて、私たち互いの間にあるハリストスをこの世に証すことこそが使徒たちの働きの継承です。アトスの長老聖シルワンは大胆にもこう言います。「意識的に地獄の内に留まりなさい。しかし絶望してはならない」。・・・どこに平安があるでしょう。
主は弟子たちに「わたしはあなたがたに平安を残してゆく。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるものは、世が与えるようなものとは異なる(イオアン14:26)」と約束しました。こうもおっしゃいました。「あなたがたは、この世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。それは「わたしにあって平安を得るためである」と。そして聖使徒パウェルは、どんな苦難にあっても「いつも喜びなさい」「たえず感謝し、たえず祈りなさい」と勧め、「そうすれば、人の思いや考えではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、ハリストス・イイススにあって守るであろう(フィリップ4:7)」と励まします。
先ほどキリスト教は「平安」を約束しませんと申し上げました。それはここで撤回いたします。平安は約束されています。しかしその平安は、平安を求めた者にではなく、「平安」への望みを捨てハリストスへのゆるぎない忠実を生きる者にだけ「添えて与えられる(マトフェイ6:33)」ものです。
そして今、分かち合うこの聖体礼儀の味わい、ここでいただくご聖体の味わいこそ、この、恵みとして添えて、与えられる平安の味わいです。