説教 マトフェイ17:14-27 2017/8/13 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
てんかんで苦しむ息子の癒しを求めて一人の父親がイイススを尋ねてきました。しかしイイススはお留守。そこで父親は主の弟子たちに願いました。ところが弟子たちは何もできません。ちょうど帰ってきた主は直ちにこの息子を癒してやりました。弟子たちがなぜ自分たちにはできなかったのか尋ねると、主はにべもなく「信仰が足らないからだ」と言い、「もしあなたたちにあの小さな小さなからしだね一粒ほどの信仰があれば、山だって動く」と言い添えました。
主のこの言葉は何よりも、弟子たちへの厳しい叱責であることを忘れてはなりません。
弟子たちは主に呼ばれ主とともに働く人生へと召されました。彼らは主と共に生活し、主から「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威(マトフェイ10:1)」を授かりました。彼らはイイススという目を見張るような霊能者、さらに人々の心を揺さぶってやまない人気絶頂の説教者の一番弟子でした。彼らは胸を張り肩で風切り、町々村々で人々を癒し、主の説教を口まねして得意満面だったでしょう。そしていつの間にか、主の弟子となれたのは自分の能力や行いの正しさ、また信仰を主が認めてくれたからに違いないと錯覚してしまいました。そんな彼らに主は冷水を浴びせかけたのです。おまえたちが胸を張っていた「信仰」なんてお調子者の浮ついた「かっこつけ」だけだったじゃないか。それに引きかえ…
そうです。「それに引きかえ、息子を何とか助けてほしいという一心でやってきて来て私にすがりついた、あのおやじを見ろ! あんたたちには選ばれた者の思い上がりがたっぷりあったけれど、あの気の毒な父親にはそんなものはこれっぱかりもなかった、しかし…からしだねほどの信仰があったよ。信仰などとは呼べないものかもしれないが、おまえたちにはどこを探しても見あたらないひたむきさがあったよ。だからこそ子供の癒しを私から引き出せたんだ」。
イイススはそう言って弟子たちを恥じ入らせたのです。
ハリストスが一心に眼差しを向けているのは、愛を注ごうとしているのは、私たち人間のどのような姿なのか、私たちは気づかねばなりません。
自分は何もかもを捨ててイイススに従った、教会の奉仕者になった、聖職者になった…、いろんなわずらいを捨てて修道士になって祈りの生活に打ち込んでいる、こういう人たちが「ねえ見て見て」と胸を張っても主は「そう、それは結構。ちょっと忙しいからあとでね」とするりと行ってしまいますよ。
そういう人たちではなくこの父親のように、希望のない病に苦しむ人たち、また仕事を失って、また長い老後に一人取り残されて、不安に怯え震えている人たち。社会に適応できない子供や兄弟の存在を十字架として背負っている人たち、最愛の者を失って生きる力を失いそうな人たち、そして自分自身の底知れない罪深さに苦しみのたうっている人たち、そんな人たち、そう私たちに、ハリストスは「からしだねほどの信仰」を見つけ出してあげようといつも目を注いでくれています。そして自分の苦しみに凍り付いて目も上げられず、すぐかたわらで手を広げて立っている主に気づくことすらできない私たちに呼びかけています。「小さな小さな信仰でもいい、へっぴり腰の信仰でもいい、私につながっていなさい、そうすればあなたたちの絶望は希望に変えられる、苦しみは喜びの証となる。あなたたちの死はよみがえりへの道となる」と。
弟子たちも十字架の主を見捨てて逃げたとき、自らの卑怯さに、弱さに、それまでの傲慢さに、「おれの信仰」と高ぶっていたものの滑稽さに、とことん打ちのめされました。しかしその時初めて彼らは、自分たちに「からしだねほどの信仰」を求めて、文字通り十字架の上で手を広げて待っていた主の愛に飛び込んで行けたのです。弟子たちはやがてこの喜びを伝える使徒としてこの世に出ていきました。その使徒たちの働きが受け継がれて今もここにあります。この集いにあります。あらねばなりません。みなさん一人一人がその担い手です。