マルコ15:43-16:8 2025/5/04 大阪教会
ハリストス復活!
福音が伝える愛の物語、その頂点が今日記憶される香を携えて、三日目の朝、イイススの墓に向かった「携香女」たちの姿です。
主イイススが逮捕されるや、それまで威勢よく胸を張っていた男弟子たちは、こそこそと逃げ出し、隠れてふるえていました。反対に女弟子たちは、ひるむことなく主の十字架の死を見届け、安息日があけると直ちに主の墓に急ぎました。この「立派な信仰」がしばしば讃えられます。しかし彼女たちにあったのは信仰でしょうか。実は彼女たちも復活を信じていませんでした。確かに、主の墓が空っぽになっていたのを見つけたのは、いそいそと主の墓に向かった彼女たちでした。しかし彼らは主の復活を確かめに墓に急いだのではなく、主の遺体に香料を塗るために出かけたことを忘れてはなりません。葬りの香料を塗ってイイススを永遠の死に封印するために行ったのです。復活の主に会いに行ったのではありません。
しかし、結果的に主の復活の最初の証人となる栄誉を得た女弟子たちと、彼女たちから見たことを告げられても半信半疑でうろたえるばかりだった男弟子たちの間には、主ご自身の復活の予告をまったく信じなかった点では同じでも、実は大きなへだたりがあります。
女弟子たちには愛があります。安息日が迫っていたため葬りの支度が充分にできなかったイイススのお体に、はやく香料を塗って差し上げたい…、早く、早く。イイススが救世主であろうがなかろうが、彼女たちはイイススをイイススとして他の誰よりも愛しました。その姿を、その温かい声を、そのやさしいまなざしを、その微笑みを、また時に見せる透明な悲しみを、偽善者たちへの怒りに震えるこぶしを、すべてを愛しました。愛したからこそ、心から主の死を悲しみ、せめて香しい香油をたっぷりお体に塗って差し上げたかった…。私たちだって愛する者の棺を美しい花でいっぱいにするでしょう。
この愛が彼女たちに、よみがえったハリストスが残していった空っぽの墓を、見いださせたのです。愛はよみがえりを見つけ出すのです。
男弟子たちにも、主の奇跡への驚きや、ローマ帝国から民族を解放する「救国の英雄」への期待は、たっぷりあったかも知れませんが、この女弟子たちの「愛」はありませんでした。だからこそ、期待が裏切られるや、彼らはただただ打ちのめされてぺしゃんこになっているほかなかったのです。彼らはイイススについての自分の勝手な思い込みだけしか見ていませんでした。ユダと変わりありません。そしてその思い込みがまぼろしに過ぎなかったことに気付いた時、挫折感の内に沈み込んで、泣きべそをかく…。
みなさん、携香女たちとともに、イイススをまず「大好き」になって下さい。福音書を何度も何度も読み返してみてください。「イイススはどんな風に長血の女を振り返ったのだろう」「罪の女をゆるす時、イイススはどんな声で語りかけたろう」「盲目の若者の目においた主の手はどんな温かさだったのだろう」…と、たくさんの思いを馳せながら。そしてイイススのお体に触れてほしいのです。
ではどこに、そのお体があるんでしょう。
…教会です、教会こそ、そのお体です。聖体礼儀で神さまの側が見せてくれる、また目に見えるものになってゆく「教会」・ハリストスの神秘に心も体もすっかり明け渡し、そこで主と一つになり、主の愛に身も心も委ねるのです。そのとき携香女たちといっしょに、私たちも、十字架の主、そして復活の主に出会います。その主は、もはや信仰箇条の中に冷たくおかれている主ではありません。天に昇られる時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるよ」と約束してくれた「大好きな」主、イイススです。
ハリストス復活!