イオアン20:19-31 2025/0427 大阪教会
ハリストス復活!
十字架で無残に殺されたイイススの弟子たちが、人々の目を恐れて隠れ潜んでいた部屋に、閉ざされた扉を、スーッと通り抜けて入ってきたのは、何と死んだはずのイイススでした。主は「汝らに平安」と弟子たちを祝福し、釘と槍によって刺し貫かれた手と脇の傷をお見せになり、まぎれもなくご自身が肉体をもって復活したことを示しました。
たまたまその場にいなかった弟子のフォマは、後からその話を聞いて言います。「その釘のあと、脇の傷口に手を差し入れてみない限り、俺は絶対に信じない」。
一週間後、同じようにまた主がおいでになりました。今度はフォマも一緒でした。フォマの耳に飛び込んできたのは「お前の指でこの手の釘の跡に触れ、その手をこの脇の傷口に差し入れてみなさい」という主の言葉でした。フォマはそれを聞いて一瞬目をみはりました。突然ひれ伏しました。そして叫ぶように主に呼び掛けました。「わが主よ、わが神よ」と。
「わが主よ、わが神よ」、イイススをただ漠然と「主」、「神」と言い表すのではなく、「わたしの主」「わたしの神」と呼びかけるのです。たんに「主よ」「神よ」と声をかけるのと「わたしの主よ」「わたしの神よ」と呼び掛けるのには、大きな違いがあります。「わたしの~」と呼ぶのは、「わたしにとって」特別なものだけです。後にも先にも、他のどこにもいない、このたった一人の「わたし」が身も心もあげて探し求めてきたもの、そして遂に見つけたもの、ついに出会ったお方、そのお方を前にして感じる深い心のふるえが、この「わたしの主よ、わたしの神よ」と思わず口をついて出た呼びかけにあります。さらに「わたしの主、神」には、この「わたし」を特別な者として、そう「わたしのフォマ」として、かけがえのない「おまえ」として愛して下さっているイイスス・神であるお方を見いだした畏れと喜びが溢れています。イイススはその十字架の傷に「手を入れてごらん」と何とこのわたしに言ってくださった。私たちに引き寄せて言い換えれば、「私のごとき罪深い者が、ここで礼拝している。あの方はここにわたしを連れてきて、立たせてくださった」…。それをまったく思いもよらない奇蹟として驚嘆し感謝する、…「いのちを得る」ための第一歩は二千年前のフォマと一緒に、こんな心のふるえと喜びを手に入れることです。「わたしのお前」と自分にまなざしを注いでいるイイススを「わたしの主、わたしの神」として見つけることです。
フォマは「疑い深いフォマ」とあだ名がついています。しかし正教会は、その疑い深さを、人を信仰に導く疑い深さとして、「フォマの善なる不信」(スボタの晩課祈祷文より)と呼んできました。そのフォマの不信は、神に敵対する不信ではなく、真実のいのちへの真剣な求めゆえの不信、疑い深さです。私たちはしばしば自分の信仰のあやふやさに、たぢろぎます。あるいはがっかりして落ちこみます。
そんな時には自分の不信を責め、自分をいたぶるのではなく、気を取り直して、復活の主と共に立ち上がって、祈りましょう。「主よ、私もこのフォマのようにいつか『わが主よ、わが神よ』と心から叫ばせてください」と。ハリストス復活!