マトフェイ17:1-9 2023/8/20 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
ハリストスは「高い山」へ三人の弟子たちをつれてのぼりました。彼らがいただきに立ったとき、驚くべきことが起きました。「彼らの目の前でイイススの姿は変わり、その顔は太陽のように輝き、その衣は光のように白くなった」。
主は、なぜ、この変容の光輝(かがやき)を弟子たちに見せたのでしょうか。
主とともに食事し、ともに飲み、ともに暮らし、その人としての優しさや、温かさに心打たれていた弟子たちは、その同じ主の突然の変貌に動転しました。弟子たちの気持ちは、ペートルが取り乱して口走った「主よ、あなたのために小屋を建てましょう」という言葉によく表れています。この一言には、いろんな解釈が可能ですが、ペートルはこの恐るべき真の姿を現したハリストスを小屋の中に奉って、いわば神棚に祭り上げてしまおうとしたと言ってもよいでしょう。しかし、そのように崇め奉られてしまった途端に、人となった神、エンマヌイル・「神は我等とともにす」と呼ばれるハリストスは、私たちと関係のないお方になってしまいます。主はそんなことを望んでご自身の光を現したのではありません。
ち一人ひとりをこの光を帯びる者へと変えていきたいという神の望みを示したのです。主は、人々を罪の闇から恩寵の光の中へ救い出し、闇に閉ざされた世界から闇を払い、限りなく輝きを増し続けるご自身の光の中で、人とこの世を果てしなく変容し続けていこうとされています。
主イイススの「救い」とは、突き詰めればここに、聖師父たちが「テオシス」(神化)と呼んだ人が限りなく神に似たものに変えられてゆくことです。
しかし、人が神の光を帯びた者に変容する…、そんなことを言われた途端に、私たちはとまどい、せっかく主の愛に心を開きかけていても、思わず尻込みしてしまいます。やっぱり「神さまは神棚に祭り上げて、恐れかしこんでいる方が、どうやら無事のようだ」などと考えたりもします。主は、罪深いこんな自分でも赦してくださり、私たちの苦しみや悲しみを和らげ、慰めてくれるお方でさえあればそれで充分、…ご自身と同じ姿に、同じ光を帯びる者へと変えられるなんて、ひらにご辞退したいというのが、正直なところでしょう。
「そんなすばらしい境地は、聖職者や修道士など「特別な生き方」を選び「特別な生活」を実践する、いわば「クリスチャンのエリートコース」を進む人々にだけ可能なことであって、自分たち普通の信者には無理、無理・・・」。
違います! ハリストスは「宗教的エリート」たちの姿を、怒りでしか表せないほど悲しみました。一部の特別な人々、すなわちファイサイ人や、律法学者、神殿の祭司たちが神の恵みや救いを、自分たちの専有物とみなし、律法を守りたくても守れないいわば「信仰の日陰者」たちを「罪人」と呼んで蔑み、神の恵みや救いから排除しようとすることに人々に、火を吐くような怒りを隠しませんでした。その代わりに「愛すること」という、人が生きていく上でまず最初に、そして究極的に問われる、最も身近で切実な課題の中に「救い」、すなわち「テオシス」への鍵を置きました。そして同時に、その愛する力をご自身の体でありその愛に他ならない「聖体血」の分かち合いで、受け取れる道を開きました。
生活のさまざまな場で出会う隣人たちとの間で問われる「愛の課題」に一つ一つ応えていく時、私たちは少しずつハリストスの救いを現実のものにしていきます。私たちは愛さないこと、人を憎むこと、赦さないこと、人の苦しみを見過ごしにすることで、この世の闇に一層の暗さを加え続けています。しかしもし私たちが小さな赦しを赦すなら、小さな和解を実現するなら、小さな愛のわざをなすなら、私たち自身とこの世界には、少しずつ光が増してゆきます。そしてクリスチャンがこの聖体礼儀に信仰をもって集い、愛と感謝をもってご聖体・ご聖血を分かち合うなら、そのわずかな光は大きな光りに集められて、この集いの場を輝かせ、ハリストスが示した「人が神の光を帯びるものとなる」という希望が、偽りではないことをこの世に示します。示さねばなりません。
神の愛・ハリストスの姿に限りなく変えられてゆかないなら、私たちは闇から闇へ、闇を支配する者・サタナの姿に果てしなく落ちてゆきます。