説教 ルカ10:38-42、11:27、28
父と子と聖神の名によりて
本日は、正教会の十二大祭の中でもとりわけ大切にされている「生神女就寝祭」です。そこでは生神女の死が記憶されます。この出来事は新約聖書には伝えられていません。しかし、正教会は聖なる伝統として大切に伝えてきました。この出来事を教会はどのように伝えてきたのか、今日は聖堂の中央に置かれた祭日のイコンを手がかりに振り返ってみましょう。
死を迎えたマリアは寝台に横たわっています。聖神によって奇跡的に世界各地から集められた使徒たちが彼女を取り囲んでいます。さらに主教が二人その様子を見守ります。天使たちもマリアに腰を屈めます。女たちはマリアを敬虔に悼んでいます。そして中央にイイススが輝きに包まれて立っています。その腕は幼い子供を抱いています。この子供はイイススの母マリアのたましいを表しています。
マリアのたましいが幼子の姿で描かれていることが、実は、マリアの死という現実が、実は死でありながら死ではないことを私たちに教えているのです。しかもそれは「死んではいない」こと以上の、すばらしい現実をも教えています。かつてこの世に新しく生まれた幼子をい抱いた母マリア、そのマリアが今、イイススに産着を着せられた幼子としてい抱かれています。
マリアは「神の子」に人の肉体を与えてこの世に新たに生まれさせました。そしていまこの彼女の子が、彼女を自らの神性に与らせました。彼女が神の国に新たに生まれるためです。ある正教の神学者(ウラジミル・ロースキ)はこの現実をこう言い表しています。
「来るべき『時』、神の国のの栄光に浴するという、人間の最終的な目的がすでにここで現実となっている。人の肉体を受け取り、死から復活した神であるお方だけでなく、神を生んだひとりの人、マリアにおいて」。
さて、本日読まれた福音にもどりましょう。
マルファとマリアという姉妹のもとに、イイススが立ち寄ったとき、マルファはイイススをもてなすために、あれやこれやと忙しく立ち働いています。一方妹のマリヤは、イイススの足元にべたっと座り込んで、主イイススのお話しに一心に聞き入っていました。その様子に腹を立てた姉のマルファは主に言います。「主よ、妹が私だけにもてなしの支度をさせているのを見て、何とも思わないんですか。妹を叱って、手伝いをさせて下さい」。マルファにイイススは言いました。
「マルファよマルファよ。あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてはならないものは多くはない。いや一つだけである。マリアはそのよい方を選んだのだ。そしてそれは彼女から取り去ってはならないものである」(ルカ10:4-42))。
…ひどいと思いませんか。マルファは一生懸命、イイススのために献身しているんですよ。教会のために、パンを焼いたり、たまごを染めたり、花で聖堂を飾ったり、一生懸命奉仕している人たちのざわめきに何の頓着もせず、教会の片隅でイイススのイコンにうっとりと見入って、恭しく十字を書くだけの人が、持ち上げられ「マリアはよい方を選んだ」ですって。「じゃあマルファは悪い方を選んだとおっしゃるんですか」と、つっこっみを入れたくなりませんか。みなさんの熱心なご奉仕にいつも助けられている私も、釈然としません。しかし・・・
司祭となってたくさんの信徒の方々の死に立ち会ってきました。生前、教会のため、社会のため、家族のために身を粉にして働いてきた方たちが、死に向かい合ったとき、あるお方はまるでそれが初めてであるかのように十字を胸に書きました。「ハリストス復活」とつぶやいた方もいました。もうしゃべられない方が、唇を突き出すので、もしやと、十字架をお顔に近づけたら静かに接吻されました…。
みなさんついに「無くてはならない一つのもの」をお選びになったのです。そして主にすべてを委ねて、マリアと同様に新しい誕生へと旅立たれました。マリアという終生「神の言葉に耳を傾け」続け、それを守り続けたお方の就寝、その死でありながら、死ではない、死を死んだお方が証した新しい命を選んで。