マトフェイ21:33-42 2023/09/03 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
一人の主人がぶどう園をつくり、農夫たちに貸し与えて旅に出ました。やがて収穫の季節。主人は収穫を受けとろうと僕たちを遣わしましたが、農夫たちは収穫を差し出すどころか、僕たちを石で打ち殺してしまいました。すると主人は自分の息子なら農夫たちも敬ってくれるだろうと、息子を遣わしました。しかし農この息子も殺してしまいました。本日の福音、イイススのたとえ話です。
神によって世界はいわば「よく整えられたぶどう園」として造られました。「エデンの園」と呼ばれる楽園です。「農夫たち」、すなわち人間に神が期待したのは、このぶどう園を見守り、そこに供えられた酒ぶねで、ぶどうを醸し、神に献げ返すことでした。すなわち、贈られた世界を感謝して受けとり、「発酵」が象徴する神が備えたもっとも身近でかつ奥妙な自然の働きを利用して、贈られたすばらしい世界にかぐわしい香りと味わいを加えて、神へ献げかえし、その贈与と感謝のくり返しの中で神との交わりを深めてゆくことでした。創世記では「神は人を…エデンの園に置き、これを耕し守らせた」とあります。ここで「耕し」と訳されている言葉には「献げものを献げて礼拝する」という意味もあります。感謝、献げもの、礼拝が一体に結ばれた生活こそ、人の本来の生活なのです。
しかし農夫たちは収穫の引き渡しを拒み、ぶどう園そのものまで奪い取りました。収穫の横取りです。そしてぶどう園から神を追い出してしまいました。
創世記はエデンの園から人は追われたと言います。しかし実のところは人が神を追い払い、楽園はもはや楽園ではなくなったのです。人は世界を自分のための、自分だけのものとしました。追い払った神のかわりに自分を神としました。神のいのちを失った世界は荒れ廃ててゆきます。人は神がしてくれていた何もかもを、今度は苦心惨憺して自力で行わねばなりません。しかしやっと作りあげ、やっと手に入れたものもみんな腐敗、混乱、そして最後には死が無に帰してしまいます。私たちがよく知っているこの世界の現実です。
イイススはたとえ話を語り終えると、実はこのたとえが当てこすっているファリサイ人たちに問います。「ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうすると思う?」。彼らは主の当てこすりに気づかず「農夫たちを皆殺しにし、他の収穫をちゃんとおさめる農夫たちにぶどう園を委ねるでしょう」と答えます。
しかし実際はどうだったでしょう。「人類」の名のもと「ヒューマニズム」というかけ声に促され、神になど目もくれず自分勝手に私たちがふるまう時、私たちもイイススを何度も繰り返し殺しています。ならば私たちは皆殺しにされたでしょうか。いいえ。反対に神は今も、ご自分を追い払った人々、今も追い払い続けている人々の心の戸口で呼びかけ続けています。十四世紀ビザンティンの聖師父ニコラス・カバシラスはこう言っています。
「全能者であるお方が、敢えて私たちの貧しさを身に帯びて、おいでになる。神は私たちへの愛を告げる。しかしそれは、まるで私たちにへつらっているかのようにさえ見える。私たちがその呼びかけを拒絶しても、神は引き下がらない。神は私たちの拒絶によってへこたれるようなお方ではない。はねつけられても、私たちの心の扉の前で待ち、変わらぬ愛、狂おしいほどの愛を示し続ける」。
この途方もなく根気強い呼びかけに応えた人々こそ「他の収穫をちゃんとおさめる農夫たち」です。ハリストスは最後にファイリサイ人たちに言います。「家造りらの捨てた石」すなわちやがて彼らに殺されるご自身が、「隅のかしら石」新しい神の民の生活の土台となるだろうと。「他の収穫をちゃんとおさめる農夫たち」は民族を超え、人種を越え、身分や性別を超え集め直され「ハリストスのからだ」教会として、もう一度ぶどう園を与えられます。教会は聖体礼儀で主教を通じて祈ります。「神や、天より臨み見て、このぶどう園にくだり、爾の右の手が植え付けしものを堅めたまえ」。そこでは贈られた世界とそこにある恵みを人々が再び感謝をもって醸し、パンとぶどう酒として神に献げ返す、すなわち「収穫をおさめる」生活が始まります。この感謝の生活、献げる生活、礼拝の生活が一体となったハリストスのいのち、「教会」で人は人として再び生き始めます。