説教 マトフェイ22:1-14 2023/09/10 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
本日の福音はイイススがなさったたとえ話です。王様が王子のために催す婚礼の宴に、あらかじめ招かれていたのに、王様の僕たちが「さあ宴の用意ができました」と呼びにきても、彼らは畑仕事や商売に出かけて、知らん振りです。あげくに僕たちは侮辱され殺されてしまいます。ルカが伝える同じたと話は、彼らの断り文句を具体的に伝えます。「私は買った土地を見に行かねばなりません」「私は手に入れた牛を調べに行きます」「私は結婚したばかりで…」。
なぜ、彼らは断ったんでしょう。王子の結婚式ですよ。それはそれは盛大で、飲めや歌えの大宴会にちがいありません。でも彼らは皆、断ってしまいました。
用事があったんだから仕方ないだろう。…ホントにそうでしょうか。
彼らはあらかじめ招かれていたんです。結婚式です。「来週結婚式だからよろしく」、私はそんな招待は受けたことありません。おそらく何ヶ月も前に招待状は回っていたはず。畑仕事は誰かに代わってもらえばよかったし、商談だって、土地を見に行くのだって、牛を調べに行くのだって、あらかじめ別の日に予定を変えておくことができたはずです。「結婚したばかりで…」なんて、まったく言い訳になりません。…行きたくなかったんです。どうして?
これはたとえ話です。「婚礼の宴」への参加は、神・ハリストスが成し遂げた救いの恵みを、信じて受けとることです。神の御子、ハリストスに集められた人々がハリストスを中心に結ばれる交わりの喜びへ入ってゆくことです。そこにあふれているのは永遠のいのちです。そこにあるのは光あふれる「神の国」です。どうしてそんなよい所へ行きたくないのでしょう。
知らないからです。その宴の素晴らしさを、その喜びの味わいを知っていれば、何をおいても、畑仕事も、商談も何もかも放り出して、…新婚さんなら嫁さん引きずってでも駆け付けるでしょう。…王様、そう神さまが全部支度してくれ、招いてくれているのです、会費も、ご祝儀もまったく求められていないんです…。
十字架の受難を前にハリストスは弟子たちと最後の晩餐を共にしました。そこには、やがて、私たちの罪の赦しのために十字架に献げられ、そこで裂かれ、流される主のお体と血、そして葬られて三日目に墓から復活した、主のよみがえりのいのちが、あらかじめパンとぶどう酒として分かち合われました。人が神さまに、そしてお互いに結び直され、パンとぶどう酒が象徴する「この世」が再び神への感謝の献げものへと創りなおされました。この時、まさに「神の国」が小さな晩餐として顕れたのです。ハリストスは命じました。「これを行い続けなさい」。
教会はこの最後の晩餐を、主のお命じ通り行い続けます。それがこの集い、聖体礼儀です。そこにある「神の国」の味わいに何もかも忘れて身を委ね、心をそこに開いてゆけば、この味わいは深まり続けます。そこにある喜びは「神」の喜びです。「わたしの喜びに入れ」という神の招きに応えて、私たちは神の喜びを私たち自身の喜びとして、「口を一つに、心を一つにして」神を讃えます。
ハリストスは三十八年間、奇跡を待って池のほとりに横たわり続けた男をみて、まず訊ねました。「ほんとうに直りたいのか」…。長い間、横たわり続けた人は立ち上がるとき、全身を激しい痛みに襲われるでしょう。治らない方が楽かも知れません。また、主は「永遠のいのち」を得るためにはどうしたらいいかと問うた青年に「すべてを捨てて、…自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と教えました。ハリストスに従ってゆくより、今まで通りの生活を続けていく方が楽かもしれません。楽でしょうきっと。いや、楽に決まっています。
しかし主を信じた多くの人々がその「楽」をなげうち、死すら恐れず、あの味わい、あの喜びへ向かってまっしぐらに駆け寄っていったのです。彼らの信仰が人並み外れた堅固なものだったからでしょうか。違います。彼らは日々、主の晩餐を受け継ぐ聖体礼儀に集い、その喜びと味わいを、約束された「神の国」の味わいとしてあらかじめ知っていました。彼らには、王様の宴会を断ることなど思いもよらなかったのです。私たちにも同じものが約束されています。しかしそれを信じるか、それを受け取るかは、神さまにも決められません。私たち一人ひとりにかかっています。