マトフェイ22:35-46 2023/09/17 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」、さらに、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。そしてこの二つの戒めは「同じこと」と言い添えました。
イイススは、神を愛することは隣人を愛することであり、裏返せば隣人を愛することで神への愛を実践できると、二つを結びつけたのです。なるほど。でも神を愛するとは、隣人を愛することなら、隣人を愛するとは神を愛すること」と言い換えて、何かわかりますか?循環論法ではないですか?そもそも「神を愛すること」「隣人を愛すること」それぞれ別々に何を意味しているのでしょう。それがわからなければ話になりません
ハリストスは別の箇所でこう教えています。
「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれない。…ゆるしてやれ。そうすれば自分もゆるされる」。裁かないことは、赦すこととおっしゃるのです。
十字架にかけられたハリストスは、愛することを「ゆるす」こととして示しました。主は十字架の苦しみのただ中から、自分を苦しめる者たちのためにこう神に祈りました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのですから」(ルカ23:34)。主ご自身が身を以て、裁かず、ゆるし、それを愛として身を以て示したのです。愛することはまず「裁かない」ことです。
ここで言う「さばき」は法律による裁きとは違います。社会生活の安全や公正さ、人の基本的な権利を守るためにそれは必要なことです。そうではなく、人を「わかってしまう」、そして「そういう人」として自分の心のファイルに綴じて込んで棚にしまい込み、「けりをつけてしまう」ことです。私たちはつい人を「あの人はああいう人」とレッテルを貼って「仕分け」てしまいがちです。どんな人にも今は現れていないもっと違った心の姿、知ればいっしょに涙を流さないではおられない心の歴史、そんなものがそれぞれに隠されていて、それがいつか目に見えてくるかもしれないのに、また何か新しいものがその人の中からまさに「無から」創り出されて輝き出すかもしれないのに、…その可能性に目をつぶって、いち早く「片付け」てしまう。これが「さばき」です。あえて人を仕分けず、判断保留のあいまいさに耐え続け、待ち続けること、これが「裁かない」ことであり、「ゆるすこと」、「愛する」ことの第一歩です。
ところで主は、こう教えていましたね。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」。これを裏返せば「隣人を愛するように、自分を愛しなさい」です。隣人を愛することの第一歩が彼を「さばかない」ことなら、同様に自分自身も「さばくな」ということです。自分を仕分けてしまわず、自分自身への判断保留のあいまいさに耐えろということです。「オレはもうダメだ」「どうせわたしは…」、極めつけは「こんな自分はもう生きていく価値がない」とさばく前に、その一歩手前でどんなに苦しくても踏みとどまれということです。
この辺で、もうお気づきになった方がいらっしゃるかもしれません。
第一の戒め「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして神を愛する」こともやはり、神を「さばかない」すなわち、神を「仕分けてしまわない」ことです。聖書や、教会の教えを積み重ねた全体が神ではありません。神は「言い難く、知り難く、見るべからず、測るべからざる」(聖体礼儀祝文)お方です。神の光はその行き着くはてのない闇の深みから輝き出てきます。信仰とはそのとらえようのない闇の中へ、身を翻して、飛び込んでゆくことです。
そのとらえがたい闇である神を愛するなら、私たちはその神の「かたち」に創造されたお互いを、さばくことはあり得ません。愛することの原点は神への愛にあるのです。「神をおそれることは知恵の初め」と「箴言」は教えます。神をおそれる、すなわち人の限りある言葉で神をわかってしまわず神の神秘、「聖なる」としか言いようのない神秘を前にしての身ぶるいが原点です。その戦慄を味わう者にはじめて、神がご自身のかたち、その似姿に創造した私たち人間互いの内にさばき得ない、わかってしまい得ない、神に由来する神秘を見る、「ゆるし」の、そして愛のまなざしが生まれます。隣人に対してもまた自分自身に対してもさばかずに待ちましょう。その「こらえ」が愛の出発点です。