マトフェイ25:14-30 2023/09/24 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
旅に出る主人が僕たちに財産を預けました。(5タラント)を預けられた僕と銀二千を預けられた僕は商売をして倍に増やしました。彼らは主人から「忠実な僕よ、よくやった」とほめられ、更に多くの財産の管理を任せられました。一方、銀一千を預けられた僕は、預かった銀一千をそのまま差し出して言いました。「あなたは大変厳しいお方です。一銭でも失ったらどんな目にあうかと恐れて、穴に埋めておきました」。これを聞いて主人は、「怠け者め。せめて銀行に預けて利子ぐらい稼ぐもんだ」と怒り、彼を外の暗闇に放り出しました。
銀一千を表すタラントは「タレント」という英語のもとです。タレントは才能や才能ある人たちです。そこから、このたとえ話を引いて、神からいただいた才能や個性を十分発揮して生きるのがよい生き方であると、よく説明されます。「なるほど」と納得しそうですが、これほど的はずれで、罪深くさえある解釈はありません。「えっ」と思われるなら、これはそもそも何についてのたとえ話だったかを思い出してみてください。主は次のように語り出したのでは・・・。
「天国は、ある人が旅に出るとき、その僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである」
天国です。…では才能や個性を十分発揮して生きるのが天国にふさわしいと教えてるの? たしかにこの世では「才能を伸ばそう」「個性を磨こう」とお金儲けの上手な人たちが人々をたきつけて「タレント」を花開かせています。でもホント? 育った環境や時代、また能力の違いなど、いろんな事情で、「個性や才能を発揮して生きる」などという贅沢な生き方とは無縁に人生を終える人たちが、殆どではないでしょうか。そんな人たちはみな「怠け者」であり、「外の暗闇に放り出される」、すなわち天国から閉め出されるのでしょうか。そんな馬鹿な。
タラントを預けられそれを増やした人とはどんな人でしょうか。
神を信じた人です。一タラントは六千デナリ。一デナリは当時のふつうの労働者の日当でした。約六千万円!一番少ない僕でも一タラントを預かりました。これは神が私たちに期待するものの途方もない大きさを表します。うれしい? いえ、私たちはふるえ上がります。しかし同時にこれは、その途方もない期待に見合った、神が与える恵みの途方もない大きさでもあります。主人から託された財産を殖やした人とは、その恵みを信じ、「今、ここで」自分に預けられた、かけがえのない課題、とりわけ愛の課題に立ち向かい生き抜いた人です。
ではタラントを土に埋めた人とはどんな人でしょうか。
神を信じなかった人です。人生を神から預かった課題として生きなかった人です。今自分がしがみついている自己満足、それもとてもあやふやな自己満足を失うことを恐れて、神が自分に、これに取り組めと促している課題に背を向けている人たちです。「神を信じる」ことを、ためらい続け、約束されたものを疑い続け、信仰によって開かれる全く新しい生き方におびえ続け、信仰だけが与えることができるできる広々とした自由な場所、天国に入ろうとしない人たちです。神が人を「外の暗闇」放り出すのではなく、自ら暗闇に留まり続けるのです。
生きることは企て、神の愛を証しする企てです。すなわち神に与えられたこの「いのち」は無意味なものではない。生きるに値します。神であるのに、私たちと同じ人となって、私たちと喜びも、苦しみも、死でさえも分かち合ってくださるハリストスが寄り添って下さるからです。そのことの喜びを、私たちの人生全体で証すという企てです。そして、人がおびえを捨て、信じて、この企てに躍り込んでくること、それが神の最高の喜びです。この企ての成否は、才能「タレント」とは無関係です。私たちが、それぞれの決して逃げ出せない状況を進んで引き受けたか、神が自分に何を求めているか真剣に祈り求めたか、しくじりを恐れず立ち向かったか、困難や苦しみを十字架として、ハリストスが課した「負いやすいくびき」として背負ったか、しくじった時は神に赦しを乞うたか、結果を神に感謝し隣人と喜びを分かち合ったか。それにかかっています。ハリストスは教えているんです。この「神を信じる」、神を愛として信じる人生こそ天国だ、そしてその受けた愛を互いに分かち合った者たちにこそ天国の門は開かれると。
それぞれの生活の場で日々の課題、とりわけ愛に懸命に取り組む私たちが、今ここで、主のお体を分かち合います。そこにこの企ての出発と、完成があります。