マトフェイ15:21-28 2023/10/01 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
イイススと弟子たちが、反対者たちを避けて異邦人たちの住む地へ入って行った時、一人の女が一行につきまとい、悪霊に取り付かれて苦しむ娘を助けてくれと叫び続けました。しかし主は「自分はユダヤ人のために遣わされた、異邦人のためではない、と取り合いません。。
この女がカナンの女だったことを忘れてはなりません。モイセイに率いられエジプトを脱出したユダヤ民族は、留守にしていた四百年の間に先祖の地に居座ってしまったカナン人ら異邦人たちをむごい暴力で追い払いました。たくさん血が流れました。カナン人はユダヤ人たちを恨み続けてきたはずです。そのカナンの女がイイススを「主よ、ダヴィドの子よ」と呼んだのです。ダヴィドはユダヤの偉大な王でした。異邦人たちにとっては憎んでも憎みきれない敵のかしらでした。そのダヴィッドの子孫であるイイススを「ダヴィドの子よ」という呼びかけ、しかも「主よ、」とまでいう呼びかけは、とても奇妙に聞こえます。
ここには「おもねり」があります。でもこの「おもねり」はただの「おもねり」ではありません。民族の憎しみを堪え抜いた上の悲しくて重い「おもねり」です。
次は、弟子たちが主に、女が「叫びながらついてきますから、追い払ってください」と願っていること…。イイススの立ち回るところ、ユダヤの地、異邦人の地を問わず好奇心に駆られた人たちがぞろぞろとついて回っていたはずです。そんな人々の冷笑や好奇のまなざしの中を、弟子たちに縄や石ころで追われながらも、なお「叫びながら」つきまとっていく女の姿を想像してみてください。
ここには見栄も外聞も捨てた「実力行使」があります。
さらに女は、主の「私はユダヤ人たちのために遣わされている」という、つれない言葉にもかまわず、「主よ私をお助け下さい」と取りすがります。自分を拒むイイススの心を何とか揺さぶろうと必死です。
ここには捨て身の「泣き落し」があります。
最後に主は「子供たちのためのパンを子犬に与えるのはよくない…」と答えます。それに対して女は、ここぞとばかりに「仰せの通り! でも子犬だって食卓から落ちるパンくずぐらいはいただきます」と切り返します。言葉自体はウィットに富んだものでも、主を見つめる目は熱く燃えていたに違いありません。
ここには、気の利いた会話などにはふだんまったく縁のない素朴な女が、頭脳を瞬間にフル回転させて放った「智略」があります。
この、おもねってでも、実力行使してでも、泣き落とししてでも、丁々発止知恵を絞ってでも何が何でも主の気持ちを動かそうという、この女のすべてを見て、主は「あなたの信仰は見上げたもの」と絶賛し願いを叶えてやったのです。
しかしなぜ主はこの女を困らせたのでしょう。じらし抜いたのでしょう。
…この女の示した捨て身のひたむきさがなければ人は、ほんとうには生きられないからです。人生を生きるに値するものとするものを、見いだすせないからです。いのちの主・ハリストスと出会えないからです。神を愛として知ることができないからです。主があっさり彼女の願いをかなえてやれば、彼女にとってイイススは優れた霊能者の一人で終わっていたはずです。だからこそ主は一見冷たい対応をして、彼女からこのひたむきさを引き出し、弟子たちにそして私たちにもそのひたむきさを示そうとされたのです。
しかしこの女も、もしこれが自分の病気のことだったなら、人々の嘲りを浴び、追われても追われても哀れな声をあげながら主の一行につきまとってゆけなかったかもしれません。主のつれない言葉にありたっけの知恵を働かせて切り返すことなどできなかったにちがいありません。みな愛する娘を救うためだからこそできたことです。愛する者のためなら挫けない、挫けるわけにはいかない、へこたれてはいられない、その愛のひたむきさがついに愛である神を動かしました。