マトフェイ22:1-14 2025/9/14 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
王様が王子の結婚の宴を催すことにしました。用意ができたので、あらかじめ招いておいた人々のもとに家来を遣わし、「さあ、おいでください」と呼びかけました。ところが誰一人来ません。ルカ伝によると、人々は「私は土地を買ったので、見に行かなければなりません」「私は牛を買ったので、私は妻を娶ったので参れません」といろいろ理由を付けて辞退しました。王は根気強く何度も呼びかけましたが無駄でした。そのうえ人々は、呼びかけにやってくる王の僕を「うっとうしい奴らだ」と殺してしまいました。忍耐強い王もついに腹を立てて、彼らを滅ぼし、町を焼き払ってしまいました。イイススのたとえ話…
婚宴は当時、最高に楽しく喜ばしい宴でした。ごちそうが並び、お酒もたっぷり、歌声や踊りや笑い声がたえない晴れの時でした。誰でもそこに行きたいと思うはずでした。しかし人々にとっては土地を買って財産を殖やすこと、牛を買って農園の経営を合理化すること、新婚家庭の買い物につきあったり、子供たちのご機嫌をとって家庭サービスに努めること、そんなことの方が、王様の催す最高に贅沢な宴に行くことより大事なことだったのです。
このたとえ話を語るのはイイススです。王は神様を喩えます。結婚の宴は人々が王子、即ち神の独り子イイスス・ハリストスと結ばれて喜びを分かち合うことを表します。招きを断り続ける人々とは、ハリストスとともに生きる喜びに招かれているのに、お金や権力、趣味や娯楽、近所の人たちや学校や会社や親戚たちと「うまくやって行く」ことこそが、人間に手堅い幸せを約束してると考え、ハリストスのもたらす喜びの中へやって来ない人たちです。
人々はしばしばこう言います。「キリスト教の教えは美しいけれど、すべて空想的な幻だ。この世の苦労で疲れ切った人々を、しばし慰めるだけの手の込んだおとぎ話にすぎない」。
でも、ホントにそうなんでしょうか。神を信じ、ハリストスを信じ、その教えに従い、主に生かされることこそが真の喜びであり、幸福であると考えるのが、ホントに空想的な幻でしょうか? 互いに愛し合いなさい、赦し合いなさいという、ハリストスの単純で力強い教えに生きることが、ホントに空想的な幻でしょうか? ハリストスが私たち一人一人の罪の赦しのために、新しいいのちへのよみがえりのために十字架に御自身を献げた、これはおとぎ話でしょうか。
「あったりまえだ!」と一蹴されるかもしれません。されるでしょう。…しかしこの「空想的な幻」、この「手の込んだおとぎ話」にいのちをかけて…、数え切れない人たちが「人生には意味がある」「愛は幻ではなかった」と確信し、主が約束する復活を信じて、永き眠りにつきました。みな私たちと変わらない普通の人間です。
一方で……お金が、権力が、社会的な地位や名誉が、学歴や出世が、この世のいろんな楽しみが、趣味や教養が、…そんなものこそ人間を幸福にすると思い込み、お金や権力の争いから人間関係の修羅場にはまり、出世や名誉を求めてもがいたあげく、多くの人々がその空想的な幻に取り付かれ滅びてしまいました。
この世のことがすべて無意味なことと言っているのではありません。神の愛と恵みを信じたとき、その一つ一つが私たちへのかけがえのない贈り物として意味を取り戻し、そこに神の愛を見つけ出せるようになるのです。酒場で仲間と交わすひと時でさえ、神の贈り物と知れば、そこは神をたたえる礼拝の場となります。でも、神とその愛を信じ自分を委ねなければ、そこは「この世の憂さの捨て所」にしかすぎません。何が最も大切か、優先順序を取り違えてはなりません。「悔い改めよ天国は近づいた」という主の呼びかけは、まさに正しい優先順序を取り戻して、神の国の宴に入りなさいという呼びかけです。その宴がここにあります。
私たちは、主・神のおかげで、今日この聖体礼儀という宴、この世にありながら神の恵みによって差し出された「神の国」、「天国」の宴に集められました。幻の内でおとぎ話に耳を傾けているのではありません。求める者は、誰でも受け取ることのできる、まさに「現実的」な喜びに与っているのです。