マトフェイ19:16-26 2025/08/31大阪教会
父と子と聖神の名によりて
ひとりのまじめな青年がイイススに尋ねました。「尊敬する先生、教えて下さい。永遠のいのちを得るためには、どんな善いことをしたらいいのでしょう」。どうやら彼は「永遠のいのち」を善い行いへの、神のご褒美と、考えていたようです。そう問われてしまったなら、イイススも「では律法が命じる戒めを守りなさい」と答えるほかありません。すなわち「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、両親を敬え、そして『自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ』」。青年は「やった!」と内心小躍りしたでしょう。「そういうことは、みんな守ってきました」。そして、そこで止めとけばいいのに調子に乗ってつい、「他に何かありますか?」と尋ねてしまいました。主の答えは、「完全をめざすなら、あなたの持ち物をすべて売り払い、貧しい人に施せ。そして、わたしに従いなさい」。青年は真っ青、有頂天からあっという間に奈落に墜落です。彼はたくさんの財産を持っていました。ましめで心優しい人ですから施しもたくさんしてきたでしょう。しかしすべてを捨てることは思いもよりませんでした。彼は「悲しみながら、立ち去り」ました。主は弟子たちに言いました。「金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通るほうがやさしい」、要するに不可能ってこと・・・。
この福音のポイントは「完全をめざすなら、持ち物をすべて売り払い、貧しい人に施して、わたしに従いなさい」という主の教えではありません。「金持ちが神の国に入るより、…」という主の言葉に驚いて「じゃあ誰がいったい救われるんですか」と口をとがらせて突っかかった弟子たちへの、主のお答えこそ、この福音の核心です。「人にはできないが、神にはできないことは何もない」。
この言葉には、語られている以上の、もっとすばらしい真実が隠されています。それは、人は救いを求め、永遠のいのちを得たい、天国へ行きたいと懸命に努力しなければなりませんが、それでも救いは、永遠のいのちは、天国は、何よりまず神からの恵みであること、神さまの側が企て、私たち人に「受け取りなさい」と差し出している贈り物です。救われたいと私たちが願うはるか以前から、神さまは私たちを狂おしいほどの思いで救いたいと願っているのです。「神にはできる」ことのほんとうの意味がここにあります。「神はそうしたい」のです。
さて。本日の福音の直前、金持ちの青年が主をたずねる前、人々が子供たちを祝福してもらおうと、大勢つれてやってきました。子供たち、皆様よくご存じの、行儀の悪い、でも嬉しさいっぱいの大騒ぎです。しっちゃかめっちゃか!中にはイイススのあたまをポンポンと叩いたり、おひげを引っ張ったりする子もいたでしょう。弟子たちがたしなめると主はそれを制しました。
「幼子たちをそのままにしておきなさい。わたしの所に来るのを止めてはならない。天国はこのような者たちの国である」。
天国は、永遠のいのちは、救いはこの幼子のような者こそ手に入れるのです。「永遠の生命のためには、どんな善いことをしたら・・・」と主に尋ねた青年はこの幼子たちと正反対でした。目の前で「慈しんで」自分に眼差しを注いでいる、救いそのものであるお方、永遠のいのちそのものであるお方、天の国そのものであるお方に、ただただしがみつけばよかったのに、「よい先生」として教えを乞い、その教えを歯を食いしばって守ることで、救いを手に入れようとしたのです。
幼子は自分の無力さを知っています。しかし彼らは悲しみません。望むものは何でも与えられる、自分は見捨てられず守り抜かれると、何の疑いも持ちません。まさに「心の貧しき者」です。私たちはしばしば、いやほとんどの場合この幼子の「貧しさ」を失って、捨て去れない様々なこの世の持ち物や思いに縛り付けられています。「大人」の分別、大人のまじめさに閉じこもり、生涯を終えてしまいます。大空を仰ぎ、胸一杯に風を受け、嬉しさに躍り上がって…その喜びに、はらはらと涙を流し、そして晴れ晴れと笑う…そんなことなど、とうの昔に忘れてしまったまま、ほろびます!こんなに努力したのにこれだけのこと、しんどかっただけ・・・
私たちの側に、この幼子の貧しさ、まさに「心の貧しさ」がなければ、神さまの私たちを救いたいという熱い願い、狂おしいほどの愛は空回りしてしまいます。空回りしてしまいます。「神にはできない」こともあるんです。だから、聖使徒パウェルは捕らえられ、放り込まれた牢屋からでさえ、弟子たちに書き送らないではおられませんでした。「いつも喜んでいなさい!」