マトフェイ18:23-35 2025/08/24 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
本日の福音はイイススのたとえ話です。
王様から途方もない額の借金をすべて帳消しにしてもらった家来が、わずかなお金を貸していた仲間に出会うと返済を迫り、その首を絞め上げました。それを聞いた王様は激怒し「わたしがおまえを憐れんでやったように、おまえも仲間を憐れんでやるべきだろう」と、彼を牢屋にぶち込んでしまいました。
イイススはたとえ話をこう結びます。
「あなたがたも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そうするだろう」。
わかりやすいたとえ話です。王さまは神、その王さまから借りている途方もない借金とは、神に対するどうやっても償いきれない、大きく深い私たちの罪です。「神はこの私たちを憐れみ、罰しないばかりか際限なく赦してくれる、…その神の愛の大きさを知るなら、私たち人が互いに赦し合えないはずはない。もし、それでもなお赦さないなら、こんどこそ神は私たちを地獄に閉じこめるに違いない」という主の戒めです。しかしそんな解釈で満足してていいのでしょうか。
「もし、それでもなお赦さないなら」とたった今申しました。もし、神の愛を知っていてなお、赦し合えないのなら、です。しかし「もし」でしょうか。むしろそれが私たちの現実ではないでしょうか。神が赦してくれた償いきれない大きく深い私たちの罪とは、まさに、神の赦しを信じていてなお、神の愛を知っていてなお、神に赦されている者どうしであってなお、私たちが心から赦し合えないことでしょう。そして神の際限ない赦しとは、まさに人のこの悲しい現実をも憐れんで赦してくださることではないでしょうか。…しかし「悔い改めて赦しを願えば」、際限なく赦してくれるというなら、それは決して無条件の赦しではありません。もし悔い改めなければ「赦されない」なら「地獄に落とされるなら」、今日の福音のように「牢屋にぶち込まれる」なら、それは「悪い者の上にも善い者の上にも、太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らしてくださる」無償の愛、無償の赦しではありません。難問です。大難問です。
しかしこれだけは言えます。神は私たちを愛しています。その愛は例外なくすべての者に及んでいます。誰一人滅びることを望まれません。そうならば…、仲間を赦さなかった無慈悲な家来が入れられた「牢屋」は、彼の無慈悲さそのものが彼自身に招き寄せてしまう苦しみに、彼自身が縛られ逃れられないということです。神が彼をそこに閉じ込めるのではありません。赦せないこと赦さないこと、愛せないこと愛さないことが、どれほど苦しいことであるか、人なら誰でも知っています。そんな自分のままで、そんな自分でさえ、神は愛し赦してくださることをほんとうに知るのなら、それは喜びとは正反対の筆舌に尽くしがたい苦しみです。その苦しさほど耐えがたいものは他にありません。私たちは叫ぶでしょう「罪深さに見合った地獄に放り込んで罰してくれた方が、よほど楽だ、どうしてそうしてくれないんだ、悲しい目で私を見つめ続けるのはやめてくれ!」
これこそが地獄です。神は冷たい正義によって人を裁くのではありません。愛によって裁くのです。その愛は悲しみと一つです。
その悲しみを知るとき、そしてその悲しみのために苦しみを受け、死すら甘んじて受けたハリストス・イイススを知るとき、私たちは初めてまことの悔い改めへと向かい始めます。悔い改めは償いではありません。まことの悔い改めの恵みを受けたとき、人はついに光の中に入れられます。神の赦しとは、神の限りのない愛と赦しの中に、喜びと感謝とともに入ってゆくこと、入れられることです。その時から人は互いに赦し合える者へと次第に変えられてゆきます。この限りない「変容」こそ、正教が人の救いと呼ぶものです。私たちの「変容」は、山の上でそのお体から白く輝き出た光の体験に与ることではありません。少なくともそれを求めてはなりません。愛し赦すことのできる者へ変えられ続けてゆくこと、その恵みに応えて、そのつど与えられる愛の課題に骨折り続けることです。