マトフェイ17:1-9 2025/8/17 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
私たちには人間というものへの根深い思い込みがあります。それは残念なことに「人間は善いものだ」という思い込みではありません。反対です。私たちは人間の歴史に、現実の社会に、身近な隣人たちに、そして何より自分自身に根深い悪を見ます。人間は、自分の利益や満足をひたすら追求する、ある哲学者が言った「万人の万人に対する戦い」の状態にあり、倫理や道徳も互いのエゴイズムがぶつかり合って、結果的に各人が損をしないための方便として尊重してきたにすぎない、そんな思い込みです。
そして、その思い込みには何の根拠も無いかといえば、残念なことに、むしろ現実です。旧約聖書はこの人間の悪の現実を容赦なく暴き出しています。
…しかし、それでもなお、それは思い込みにすぎないのです。
イイススのなさったこと、それはそんな思い込みをひっくり返す企てであったとも言えます。
イイススはある日、三人の弟子を連れて高い山に登りました。山頂に着くと、突然イイススの姿が変わり「その顔は太陽のように輝き、着物は白く光り」(マタイ17:2)ました。弟子たちは光り輝く雲に覆われ、そこで、ハリストスが神の子であることを告げる神父(God the father)の言葉を聞きました。出来事は一瞬でした。主はいつもの姿に戻り、弟子たちに「恐れるな。ただ、私が復活するときまで誰にもこのことは漏らしてはいけない」(17:9)と命じました。
やがてイイススは十字架にかかることになります。すばらしい先生、愛と希望と智恵に溢れた御言葉を語り、多くの奇跡で、苦しむ人を救い、飢えた人々を満腹させ、死者をよみがえらせたすばらしい先生、弟子たちが「あなたは生ける神の子です」と告白したお方が、全く無力に押しつぶされます。イイススはそれを予見していました。そのとき弟子たちが、あの思い込みに逆戻りしてしまわないように、即ち世界は何も変わらなかった、人間は何も変わらなかった、やはり悪の現実だけが唯一の現実だったという思い込みに逆戻りしないように、主は、やがてその復活で露わになるご自身の真の輝きをかいま見せたのです。なにがあっても絶望してはいけない。今日見たことを心に刻みつけなさい。
このように、ご自身の真の姿を現して弟子たちを試練に備えさせた、その主が、私たちにも、弟子たちと同じ体験を恵まれます。残念なことに、私たちも弟子たちと同様にその意味を悟らず、やがて襲いかかる日々の信仰生活での試練に押しつぶされてしまいます。高い山で弟子たちに恵まれた同じ輝きを、私たちは深夜の復活大祭に、闇の中にそこだけが光溢れる礼拝の、うねるような喜びの中で心と体に刻みつけます。毎週の聖体礼儀にも同じ喜びがあふれます。変容を目の当たりにしたペートルが「主よ、わたしたちが、ここにいるのは、すばらしいことです」と思わず口走ってしまったように、この喜びの中に、この光の中に永遠にとどまりたいと、心から願います。
その喜び、その願いこそが私たち人が皆、神のかたち、神様が私たちに、かくあれかしと与えた神の似姿を内に宿していることの証です。私たちが皆、神の光輝で輝くべき存在であることの証です。また、たゆまずに神への道を歩み続けた者がやがて容れられる神の国の輝きの先取りなのです。
「人間とはこんなものにすぎない」と考えてはいけません。確かに、私たちの力では私たち自身を変えることはできません。しかし神様にはできます。私たちは聖体礼儀でこの「神様にはできる」を体験します。だって…パンとぶどう酒が主の体と血に変わるでしょう?。
。その体と血を受けて私たちも変えられるんです。私たちは、神の恵みの中にあるかぎり、また神の恵みの中でのみ、主の変容の光にふさわしいものに変えられることを、この聖体礼儀に光が溢れることで、証しするのです。
そして私たちは弟子たちと共に山を下ります。日々の生活の重苦しい現実の中で、自分の十字架を主と共に背負うために。その十字架の彼方に、この聖体礼儀の輝きが永遠にかき消えることのない「神の国」が待っているのを確信して。