マトフェイ14:22-34 2025/08/10 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
住み慣れた町を捨てて、見知らぬ土地へ旅立つのには勇気がいります。
たとえどんなに「嫌なもの」であっても、長い間なじんできた生き方を捨て、新しい生き方に踏み出す時も同じです。
目に見え、手で触れるものしか信じないで、「体裁のいいことを言っても人はみなが第一なんだ」と、いつも身構えている生き方は、とてもしんどいものです。しかし慣れてしまえば何とかなってしまうものです。「人生なんてこんなもの」というに座り込んでしまうと、人はなかなかそこから立ち上がれないのです。
ハリストスは、この慣れきった生き方(「滅びに至る広い道」(マトフェイ7:13)から出ておいでと呼びかけます。そして「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(イオアン13:34)」と、愛が幻ではないことを日々の生活の中で証しする生き方を指さし、「そこに行こう」と招きます。聖使徒パウェルも「そうすれば人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安(フィリップ4:7)」にれると約束します。
そして主は、この新しい生き方を支えることができるのは信仰だけだと教えました。
ガリラヤ湖の畔で五千人の群衆を五つのパンと二匹の魚で満腹させたイイススは、弟子たちを先に船に乗せ対岸の町へ向かわせました。ところが湖にはやがて激しい逆風が吹き始め、船は波にもみくちゃにされ、にっちもさっちも進むことができません。怯える弟子たちをさらに怯えさせたのは暗い波間から怪物のような黒い影が近づいてきたことです。実はそれは水の上を歩いてくるイイススでした。それに気づいたペートルは「わたしにも水の上をわたってみもとに行かせて下さい」と願いました。「おいでなさい」と主に励まされ、舟から足をおろし、何歩か歩いたとたん、ペートルは風を見て恐ろしくなり、溺れかけました。主は手を差し伸べて彼をつかまえ「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とお叱りになり、そして二人は船に上がりました。
新しい生き方は未知の生き方です。これまでの「当たり前」はもう「当たり前」ではありません。新しい生き方はハリストス、…自分を殺そうとする人たちのために赦しを十字架上で神に祈った(マトフェイ24:34)ハリストスの愛を、本気で自分の新しい生き方として引き受ける生き方です。たとえば「気に入らない」人々を軽蔑したり無視したり裁いたりして「片づけて」しまわず、まずその人々のために祈るのが新しい「当たり前」です。
しかし、私たちはしばしば「あいつらを赦す?そんな無防備な生き方で大丈夫だろうか」とえます。怯えたあげく、捨ててきたはずの「当たり前」の海に沈みます。「ナメられてたまるか!」
しかし主は怯えて水に沈んだペートルにしたように、主はお叱りになりながらも手を差し伸べてくれます。この未知の旅をゆく私たちの怯えをよくご存じだからです。