ルカ19:1-10 2025/02/02 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
高いところから見渡すと、住み慣れた町、見慣れた景色も、おやっ、と思うくらい違って見えます。ふだんと同じ目の高さからは、同じものしか見えません。
変わりばえのしない日常の中で、あいも変わらぬ人間のスッタモンダが続きます。や自分のずるさや弱さにも慣れっこになり、薄ら笑いしか浮かびません。「人生なんてこんなもんさ…」と見限り、身心共になるべく面倒がないよう、視線を、低く足元ばかりにさまよわせて生きている私たちです。
ローマ帝国に代わって同胞ユダヤ人からの徴税を請負う税吏のザクヘイもそうでした。「ローマの手先」「人でなしのピンハネ野郎」「汚らわしい罪人」という人々の侮蔑にも、もうとっくに慣れ、「うまい汁」への罪悪感も麻痺していました。
しかし、近頃よく耳にするイイススという人の評判は、なぜか彼の胸につきささります。「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」、まあ平たく言えば「金持ちは救われない」ということ、そんなことを言ったとか。俺はだめってことか・・・、ザクヘイは自嘲的につぶやいたことでしょう。
ある日、町中が騒ぎ立ちました。イイススがやって来たのです。ザクヘイはなぜか矢も楯もたまらず家を飛び出しました。でも背の低い彼には群衆の背中しか見えません。彼は意を決して、人々の目もかまわず、裾をからげて、息を弾ませ、そばのいちじくの木に登りました。そこで彼が出くわしたのは、人というもののの悲しさを、ザクヘイが自分に対してさえ隠している悲しさを、底の底まで見通してしまうかのような、イイススの眼差しでした。人々の、彼の子供じみた振る舞いを嘲ける笑い声は彼の意識から消えました。聞こえていたのはイイススの「おりて来なさい」という呼びかけだけでした。
「今日はあなたの所に泊めていただこう」。
ザクヘイは、イイススの注ぎ出す、その愛に一瞬にして包まれました。涙が溢れました。一人でも多くの「失われた者を尋ねだして(19:10)」救いたいという主の愛を見ました。彼は見つけだされました。彼は悔い改め、「あなたの所に泊めていただこう」、この言葉を抱きしめ、イイススを彼の家に、そう彼の心に迎え入れたのです。
私たちもザクヘイにならい「イイススに会いたい」という熱い望みをもって木に登らねばなりません。同じ目の高さからは何も新しいものは見えてきません。
大斎準備週を目前にひかえたこの主日、教会はザクヘイのこの回心を伝えます。
そして「ザクヘイの木登り」を「祈りと斎の実践」を意味すると教えます。
それは、「ちょっと見方を変えて」という単なる頭の中だけでの考え方の変更ではありません。心と体の骨折りです。実践です。
「『実践』かぁ、やっぱり…。疲れるナァ、腹へるナァ」…なんてぼやいてはなりません。
疲れるのも、腹減るのもあたりまえです。木登りなんですから。イイススに出会いたければ、木登りです。