ルカ18:35-43 2025/01/26 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
イイススがエリコという町を歩いていたとき一人の物乞いの盲人から、突然呼び掛けられました。「ダヴィドの子、イイススよ、私を憐れんでください」。
イイススは立ち止まり、盲人に問いかけました。
「何をして欲しいんだ」。盲人は答えました。「目が見えるようになりたい」。
それを聞いてイイススは「見えるようになれ」と言い、そして彼のまっすぐな信仰を讃えました。
主に目を開かれたこの人は、両手を挙げ、天を仰ぎ、そしてやっと生き始めることができた喜びに、弾むように主について行きました。
ここにいるのは、呼び止められるのを待っているイイススです。
この世のまさに「ちまた」、人々のいとなみのただ中を巡り歩く主は、そこに何を見ているのでしょう。疲れ果てた貧しい人々、病に伏す人々、毎日儲けたり損をしたり、銀貨を繰り返し数えて一喜一憂している人々、人の生命のはかなさなどは忘れたふりで、その日その日を危うくも遊び暮らしている人々もいたでしょう。さまざまな難儀に頭を抱え、人と人との葛藤に苦しみ、悩み、おびえ、争い合い、傷つけあう人々、…愛する者の死をなげき、天を引き裂くかのように叫ぶ人々にも何度も出会ったでしょう。
イイススはそんな人々を高いところから「見物」していたのではありません。
イイススは、イサイヤの預言した「悲しみの人、…私たちの病を負い、私たちの悲しみを担った人、…あなどられて人に捨てられた人」です。炎天下、疲れきって、渇ききって井戸端に座り込んだお方です。友の死に心を引きさかれて「泣いた」お方です。一人の弟子に裏切られ、さらに他の弟子たちにも最後には見捨てられたお方です。イイススは時に人々に激しい怒りを表しましたが、決して憎みませんでした。唾を吐きかけられ、愚弄され、むち打たれ、磔にされました。しかし主は彼らのために祈りこそすれ、決して憎みませんでした。それどころか、ご自身を憎む者が、憎しみの熱い炎でどれほど心を焼かれているか、その苦痛を思いやって、いても立ってもいられなくなるお方でした。
そういう私たち人の「死のさま」、そのもたらす苦しみをご自分のこととしてよく知っておられるイイスス、…そのイイススはしかし、そういう私たちに次から次へと走り寄って「苦しいんだろ、たすけてあげよう」と一人一人すべてに、その神の力を用いて、対応したわけではないのです。その苦しみ悲しみを痛切に知りつつ、主は歩いてゆかれる。通り過ぎてゆかれるのです。
呼びかけられるのを待っているのです。
「ダヴィドの子、イイススよ私を憐れんでください」。
すべてをご存じのお方が、希望を失い「自分はもう、やがて訪れる死に自分を委ねるほかない」と思い込んでいる人々の前を、あえてただ通り過ぎ、「私を憐れんでください」と呼びかけられるのを待っているのです。
冷たい…、でしょうか。愛がない…、のでしょうか。違います。そこにあるものこそ真の神の愛です。人が神を、いのちの主として知り、その神の人への愛の途方もない深さを知り、その愛を信じて心の底から叫び出すこと、祈り始めることの他に、神が約束した「ほんとうの幸せ」への入り口はあり得ないからです。人は長い長い間に、罪を深めこの単純な真実がわからなくなっています。だからこそ神が人となってこの世に来ました。そして歩いています。歩きながら、ご自分を人々のただ中にお示しになりながら、私たちから呼びかけられるのを今か今かと待っています。
六世紀のローマ主教聖大グレゴリイは力強くこう説教しました。
「盲人は『ダビデの子イイスス、私を憐れんでください』としつこく叫び続け、通りかかったイイススの足を止めた。…あなたも熱烈に祈れ。必ずイイススを立ち止まらせることができる」。