マトフェイ3:13-17 2025/1/19 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
いきなり見も知らぬセールスマンが訪ねてきて「高利回り、確実、安全な資産運用の提案です」とか言い出したら、皆さんいかがですか。大喜びで「さあ、どうぞ上がって下さい」なんて人はいないでしょう。たとえ何のたくらみもなく純粋な善意からであっても、人の家を訪ねて「お話を聞いてください」と申し出たら、誰でもこういう応対をされます。
神様だってそんなことはよくおわかりでした。人々から畏れ敬われ、人々をひれ伏せさせるためには、天上の聖なる場所にじっと隠れていて、時々雲の中から御自身の威光をちょっとだけお示しになるのが一番だったのです。しかし神様はあの最も未熟でお粗末なセールスマンと同じようにいきなり人々のまっただ中においでになり「神の国は近づいた、悔い改めよ」と呼ばわり、警戒され、蔑まれ、嫌われ、やがて憎まれ、ついには縛られ引いて行かれ、ついには殺されてしまいました。神様ともあろうお方がそれをご承知の上で、どうして…。
だれも一向に買いに来ないからです。探しに来ないからです。何千年待っても、人々は神様を神殿の至聖所、いわば神棚に祭り上げはしますが、神様の所へ歩みだし神様とのほんとうの交わりを結ぼうとしないからです。本物を知らず、まがい物を喜んで、それに気づかないからです。おまけにそのまがい物の毒に染まり、そのまがい物を争いあって互いに傷つけあい、ついには孤独の内に何の希望もなく滅んで行くからです。だから…いても立ってもおられなくなったのです。
神様ご自身が私たちと同じ肉体をとり、同じ人間性をまとい、この世へ、私たちの家へ入ってこられました。しかも髪をなでつけ、立派なスーツに身を包んで、ぴかぴかの靴を履いてではなく、むしろ怪しまれ、蔑まれることを、まるで望んでおられるかのように、「見るべき姿無く」「威厳もなく」「慕うべき美しさもない」(イサイヤ53:2)、神の尊厳をかなぐり捨てたお姿で人々の前に現れました。
ヨルダン川の岸辺、前駆授洗イオアンのもとに無数の人々、自らの罪に怯え、来るべき裁きを恐れて、罪のケガレを洗ってもらおうと順番を待つ大群衆が、集まっていました。神様はそのどよめきと土ぼこりの中で、洗礼の順番を黙ってじっと待つ一人の貧相な男としてこの世に姿を現しました。このイイススが、やがてその十字架に向かう歩みの中で、なんと「わたしは道であり、真理であり、命である。誰でもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と宣言しました。こんなハッタリとしか聞こえないインチキ臭い言葉を聞かされて、人々はついにイイススを拒絶しました。そして今でも、拒絶され続けています。
しかし主は、何度追い払われても玄関口に立つ不器用で愚かなセールスマンと同じように、今は拒絶されても、自分の受ける受難が、自分が落とす汗が、自分の流す血が、自分のぶざまなほどに惨めな姿が、ついには人々の心を開かせるだろうと信じて疑わず、人々のまっただ中でご自分を示し続けたのです。そして今でも、もうイイススを憎むことすらしないこの世で、クリスマスは大好きだけれど誰もイイススに何の関心も寄せないこの国の片隅で、私たちのこの小さな集いとして御自身を示し続けておられます。
ここに神様の愛があります。愚かなほどの、狂おしいほどの愛があります。もし、皆さんが愛する家族や大切な友だちを、その陥った苦境から何とかして助け出してやりたいと、頭を抱え、胸を打ち、オロオロとあてもなく右往左往したことがあるなら、わかるはずです。信仰は神様のこの同じ狂おしいほどの愛に胸を打たれることから始まります。
ついにイイススが十字架で息を引き取った時、主の処刑を取り仕切った一人のローマ人下士官が「まことにこの人こそ神の子であった」と文字通り胸を打ちました。主の愚かな自滅としか見えない十字架が、ようやく一人の人間の心を開きました。
クリスチャン一人ひとりの人生はそれ自体が「愚かな」宣教として、神の愛が真実であることを証すために、このハリストスの狂おしいほどの愛が働く場です。