ルカ18:10-14 2025/02/09 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
聖体礼儀では何度も繰り返し「主憐れめよ」と祈られます。しかし、聖体礼儀をさす「ユーカリスト」という言葉は「感謝」を意味します。聖体礼儀は神さまへの感謝の宴であり、そこに溢れているのは喜びです。この喜びに「主憐れめよ」という祈り、「自分は憐れむべき人間だ」という嘆きはどう調和するのでしょう。
今日の福音。神殿で二人の人が祈っていました。一人は律法を忠実に守るファリセイ派の人。一人は税吏でした。ユダヤの征服者ローマ帝国に代って税金を取り立て、しばしばその一部を自分のポケットに入れて私腹を肥やし、人々から「罪人」と蔑まれていました。ファリセイは胸を張って神に祈りました。「私は、貪欲で不正にまみれ、淫らな行いにふける連中のようではなく、きちんと断食を守り、献金も欠かしません。あの税吏のような人間ではありません。感謝します」。いっぽう税吏は神殿の片隅から、目もあげず、ただ胸を打って祈りました。「神さま、罪人のこの私を憐れんで下さい」。そう「主憐れめよ」です。
イイススは、神さまがお喜びになったのはファリセイではなく、この税吏だったと言い、自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされると、お話しを結びました。
実は、主は、このお話を税吏たち「罪人」に対してではなく、「自分を義人だと自任して、他人を見下げている人たち」に向けて語ったのです。彼らは、後ろ指をさされることなど一つもない「清く正しい」人たちでした。律法を厳しく守り、熱心に祈る人たちです。その上ファリセイは神に「感謝いたします」と祈っています。自分の正しい生活を自分の努力の成果だと高ぶらず、みんな神さまのおかげと感謝しています。申し分ない「義人」です。しかし毎年、大斎準備週間の第一主日に、このファイリセイは世界中の正教会で、神の祝福を失った者として「低く」されてしまいます。面目丸つぶれじゃないですか。おかしい!。
・・・彼は、心の底から自分は申し分ない人間だと自認しています。たとえ、それはみな神のおかげと謙虚に感謝しても、自分は正しい人間だという思いは神の祝福、神が約束する真の喜びから、自らを引き離してしまうのです。反対に、自分が誰よりも神の憐れみを、赦しを、救いを必要とする罪深く憐れむべき存在であるという嘆きだけが、神の祝福への、神さまが与えてくれるまことの喜びへのただ一つの入り口なのです。偉大な修道者たちはしばしば、「自分はあらゆる被造物より劣っている…」と嘆きます。「あらゆる人たちより」ではありません。「あらゆる被造物より」です。蛇やさそり以下、虫けらやミジンコ以下です。「なんて大仰でイヤミな『ハッタリ』なんだ」と思われるかもしれません。しかし、蛇やさそりは仲間を憎みますか、虫けらやミジンコは仲間を蔑み笑いますか…。
この福音については、この税吏の遜りにならって謙遜であれとよく教えられます。でもそれは片手落ちです。謙遜だって自分の謙遜さへの自己満足へと簡単にすり替わってしまいます。もし「神よ、謙遜さを知らないあの高慢な人たちのようでないことを感謝いたします」と祈ったなら、「自分を義人であるとして、他人を見下げている者」として「低くされ」、神の祝福を失います。
謙遜を目指す努力は決して達成されない努力です。達成されたと思った瞬間、いとも簡単に傲慢へとすり替わります。これは、途方もない苦行です。成し遂げられることが決してないことが明白なのに、それを成し遂げようと、自分を促し続けなければならないんですから。しかしそれは苦行でありながら同時に喜びへの、神が約束してくれる光への、はてしなく高められていく歩みなのです。
この歩みの中心にあるのが、領聖です。ハリストスの御体と血にふさわしい者など一人としていません。しかし、私たちは自分の徳によってではなく、神からの恵みによって、ご聖体、ご聖血に与らせていただくのです。この繰り返しの中で、私たちはこの、決して高慢へとすり替わってしまうことのない謙遜を、少しずつ身につけてゆくのです。
最初に、聖体礼儀の喜びに、「主憐れめよ」という嘆きはどう調和するのか、と問いました。お答えいたします。この嘆きしか、この、人というものに約束されている、神さまに迎え取られて一つになるという真の喜びに調和しないのです。