ルカ16:19-31 2023/11/05 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
「主、憐れめよ」、この礼拝で、私たちは何度そう祈るでしょう。はじめて真剣な望みを持って、正教の祈りの場に立ってから、私たちは何度、「主憐れめよ」「主賜えよ」と祈ってきたでしょう。
この私たちの祈り、願いの前提は、私たちが神さまに、憐れんでいただかなければ、神さまから必要な恵みをいただかなければ、救われないということです。そしてそれを痛切に、身にしみて知っているということです。そう祈る人々は皆、たとえ言葉にはならなくても、自分たちは何かを失って生きていることを知っています。今日の福音で、ハリストスはそれを、私たちの陥っている人と人との交わりの「歪み」を通じて教えます。
一人の金持ちが毎日毎晩、贅沢に暮らしていました。彼の思いはこうです。「俺が自分の力で稼いだ自分の金を、自分の好きなように使って何が悪いんだ」。「誰に迷惑をかけるわけでもない、いいじゃないか」と「普通に」過ごしていたのです。私たちと同じです。その金持ちの玄関先に、体中に腫れ物が吹き出し、その膿をなめに寄ってくる犬さえ追い払えないほど弱っていた、ラザリという乞食が横たわっていました。ラザリはこの家の主が、食事の時の手ふき代わりに使ったパンの一切れでも投げてくれないかと、待っていたのです。しかし金持ちはラザリにまったく関心を寄せませんでした。パンを投げ与えることなどもちろん、「目障りだ、あっちへ行け」と追い払いさえしませんでした。まさに眼中にない…。
ハリストスは人の陥っている罪を、この普通の人の、隣人の苦しみや悲しみに対する無関心、無感覚として暴露したのです。この「人と人との互いの無関心」、普通の人の「罪とさえ自覚されない隣人への無感覚」、ここに元祖アダムとエヴァが神に背き、生命の源である神を離れたことの結果をみたのです。それは私たちが、「そのように生きて何が悪いのですか」とキョトンとしてしまう生き方です。子供たちに「人に親切にしよう」と教えるよりまず「人さまに迷惑をかけるな」と教える生き方です。そして「人に迷惑さえかけなければ、どんな風に生きたっていい、自分が生きたいように生きなさい」という生き方です。神さまは「人が一人でいるのはよくない」と人を「交わり」として創造しました。それにも関わらず人が罪によって、互いを孤立した個々人へと切り離し、物質的であれ霊的であれ、…低俗であれ高尚であれ、自分の心に適うことを、あからさまに言えば自分の満足をひたすら追求して飽くことない生き方です。人はもはや交わりとして生きず「自分」としてしか生きません。そこでは「自己実現」が最高の価値です。そこではチリジリバラバラに生きる個々人の自己実現を邪魔し合わないことがただ一つのルールです。そこで人は、もうそれが深刻な罪、実は寒々とした孤独地獄であるとは感じないで、「あたりまえ」のこととして生きています。
ハリストスが成し遂げた人の救いとは、この孤独からの救いです。主はそれをまず、再び神との交わりへと立ち帰るための道を開くことから始めました。そのためにご自身を十字架に献げました。愛を失ってしまった私たちのために「友のために自分の命をささげる」という最高の愛を神に献げました。神に与えられたいのちを感謝し、互いの愛を神への捧げ物としてささげるという、神と人、人と人の本来の交わりのかたちを回復するためです。そのために「愛である」神の、悲しみをなだめるために、私たち人間への愛を十字架にささげたのです。主の十字架は、天と地をまず縦に結びつけます。そして横木に広げられたハリストスの両腕は、すべての人々をご自身に招き一つにします。
このハリストスの成し遂げた人のほんとうの生き方の回復によって今や、私たちは隣人の苦しみや悲しみに心を寄せ、手をさし伸べて、憎しみを克服し赦しあうことができるようになりました。その気にさえなれば。教会とはその救いを生きて証しする交わりです。