2023/10/29 大阪教会
父と子と聖神の名によりて
イイススは、人々の心にどのように信仰が育つか、あるいは育たないかを、農夫の種まきに譬えました。当時の種まきは大変おおざっぱで、種袋に小さな穴を一つあけ、ロバの背に乗せて歩かせ、地面に種を落としてゆくといったものでした。種は耕された土地ばかりでなく、いろんな所に落ちました。
今日はそのうち、道ばたに落ちた種にたとえられる「頑なな心」に何が起きるか考えてみましょう。道ばたは人々や車の往き来で踏み固められ、カチカチです。種は根づく間もなく、踏みつぶされたり鳥がついばんでいってしまったりします。主イイススはかたくなな心には、たとえ神の言葉が語られても、興味や関心が呼び起こされる間もなく、この世の力(悪魔)がそれを取り去ってしまい、信仰の芽さえ芽生えないと言っているのです。
ある時、自分は無神論者と公言して憚らない友人が、「おまえの姿は、実に痛ましい」と言いました。宣教の努力がなかなか実らないことに、立場は正反対ですが、同情してくれたのです。実際、徒手空拳、のれんに腕押し、馬耳東風とでも言いましょうか、せめて反発ぐらいしてくれたらと思うほどです。しかし、宣教のよびかけに一向に応えない人々は「悪いやつ」ですか。そんなことはないでしょう。また、ここで言われる「かたくなな心」とは、いわゆる「頑固」で「偏屈」な心でもありません。たいがいのクリスチャンの心よりよほど常識あり柔軟な心です。人柄も円満、行いも申し分なく、心もずっと清らかかもしれません。ハリストスを憎み、キリスト教をことさらに蔑むような人々ではありません。いろいろな思想や文化、また信仰にも理解のある寛容な、「ものわかりのよい」心です。しかし、こと「自分が特定の宗教を信じて生きる」ということについては「正直言って全然ピンと来ない」心です。
聖使徒パウェルは、この世の人たちのかたくなな拒絶に出会ったとき、「十字 架の言葉は、滅びゆく者には愚かなとしか聞こえないが、救いにあずかる私たち には神の力である、理屈や証拠を」 いっぱい持ち出して説得するのではなく、「宣 教の愚かさ」としか言えないたゆみない伝道によって、かたくなな心から信仰を 掘り起こしてゆくしか道はないと言っています。くじけるわけにいかないんです。 宣教に携わる人々の口からよくこういうつぶやきが漏れます。「がんばったのに、 今年洗礼を受けたのはたったひとりだった」。これはこう言いかえるべきです。 「神さまが私たちを祝福してくださり、この実りを与えてくださった」と。それ が「たった一人」であっても、「これほどまでに」と神に心から感謝し、祈り続 けてきたからこその実りだということを、忘れてはならないんです。
そして主の譬え話は悪い土地についてのものだけではないことを思い起こしましょう。主は、「良い地」ともいえる心もあり、それは神の言葉を聞いて大きな実りを得ると言います。「良い地」とは深く鋤や鍬が入り、空気も水もよく行き渡った、「耕された土地」のことです。
神の言葉を受け入れた私たち自身がまず、「神の御言葉」という鋤で一層心を耕し、領聖によって聖神の恵みを、土に含ませる酸素のように心と体いっぱいに行き渡らせ、生活に愛という実りをもたらさねばなりません。クリスチャンの刈り取るべき実りは「愛」以外にありません。そして今度は、家族や隣人たちの「かたくなな心」に、愛による祈りという鍬をたゆみなく打ち込みます。
思い起こさなければなりません。ここに集う私たち自身の心も、最初はかたくなではなかったでしょうか。誰かの祈りのおかげでここに今立っているのではないでしょうか。親かも知れません、妻かも、夫かも、兄弟だったかも知れません、友人だったかも知れません、砂漠や森の中の修道院ですべての人々のために祈り続けている人々の祈りかもしれません。
あんなだった自分が今ここで、「我が霊や主をほめあげよ」なんて歌っている。奇跡以外の何でしょうか!